背いていく人類に、 神は、
「わたしのはらわたは彼のためにわな
なく」 と訴えます(エレ31:20/新改訳)。
限られた感性の中からしか想像し得ませ
んが、 神の私たちに対する思いは概念的なものではなく、
私たちが肉体に経験するものの延長線上にあることがわかります。
人類に向かって注がれる神の愛は、
神のうちで「痛み」となっていると神学者の北森嘉蔵氏は説きました。
愛する価値のない者を愛することで神はすでに痛みを経験しているのです。
そして「神の痛み」は、イエス・キリストの十字架の上で
人類の前に集約されました。
神の痛みを瞑想します。
失うことができない、あなたは滅んではならないと私たちにせつなく
訴える神は、愛するだけでも痛むのに、そのひとりでも神から離れて
いくことにどのように耐えていくのでしょうか。
ご自分のはらわたが痛むほど私たちを愛する神は、
キリストの十字架でその痛みのきわみを人類に示しました。
それなのに、人は失われていく。
ひとりでも失われるということは神にとってどれほどの痛みなのでしょうか。
その痛みをどのように携えていくのでしょうか。
これは私には想像もつかない痛みです。
ただ、私たちはやはり
神のためにも失われてはならないのだという結論は出てきます。
私たちの救いは神のためにもあると言えます。感謝します。
ーー寄稿メッセージーー
永田英子 東京衛生病院チャプレン
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