2011年6月30日木曜日

祈りは信仰の確信を強める




信仰の確信は、
毎日、
み言葉を読み、
へりくだった
真剣な祈りを
ささげることによって
強められる必要が
あります。

私たちには
それぞれ
個性がありますし、
確信は
各自それぞれが
堅固に持つべき
ではありますが、
その確信は
神の真理として、
神が与える力によって
持たせていただかなければなりません。

もしそうでないならば、
確信はいつしか
私たちの内から消失してしまうでしょう。


(『教会への証』 第六巻 401p)


祈り 150p

2011年6月29日水曜日

家族で祈ることの必要



個人的な祈り、
家庭での祈り、
公の集会における祈り、
礼拝での祈り

どれもみな
欠くことのできない、
重要な祈りです。

そして
私たちは
祈りを
生きなければ
なりません。

ささげる祈りのように
生活するのです。

キリストが
そのためになしてくださる
わざと働きに、
私たちは喜んで協力したいものです。


(『教会への証』 第七巻 239p)

祈り 303p

2011年6月28日火曜日

密室の祈りで自己を知る




密室での祈りほど、
自己について、
かくもはっきりとした認識を
私たちに与えてくれるものは
ありません。

ひそやかなることを
見ておられ、
すべてをご存知の神は
私たちの知力と理解を
啓発してくださり、
また祈りに答えてくださいます。

そのとき、
決して看過ごしてはならない
明確で基本的な義務が
私たちの目の前に
示されることでしょう。


(『教会への証』 第五巻 163p)


祈り 292p

2011年6月27日月曜日

神の受け入れられる雄弁



雄弁に祈ろうと
努力している者は、
全く祈りの場に
ふさわしくない。

神の
受け入れられる雄弁は、
助けの必要を
感じる熱心な、
熱望する魂の叫び
なのである。

長い祈りが
必ずしも大切ではない。

正しい精神で労する人々は、
正しい精神で祈るであろう。

キリストが労されたように労している者は、
熱心に祈るであろう。

神の言葉は我々に確信を与える。

「義人の祈りは、大いに力があり、効果のあるものである」


Letter 121. 1901年

2011年6月26日日曜日

親密度の度合い




洗いざらい
すべてをぶちまけること
イコール
親密度の度合い
ではない。

むしろ、
理解し尽くせない部分を
残している、
そういう相手を信頼し、
尊敬を持っていること、
そして、
その淋しさに
耐えていくこと、
それが大人の愛であり、
長続きする愛ではないか。


*人間としてどう生きるか

2011年6月24日金曜日

2011年6月23日木曜日

神の働きのために祈る







神の働きが持つ
多種多様な意義と
益を考えるとき、
私たちには
祈るための瞑想と
霊感の糧となるものが
与えられます。

(『教会への証』第四巻 459p)





祈り 154p

2011年6月22日水曜日

祈って信じなさい



一度だけ求めよ、
そうすれば、与えられるで
あろうと、
神は
言っておられない。

神は、
求めよと
命じておられる。

根気よく祈り続けなさい。

求め続けることは、
祈るその人を
もっと熱心にし、
求めているものに対する
願いをさらに増大する。

キリストは、ラザロの墓で、
マルタに次のように言われた。

「もし信じるなら神の栄光を見るであろう」と
(ヨハネ11:40)。

しかし、
生きた信仰を持たない者が多い。

彼らがなぜ、
もっと神の力を見ることができないかは、
それに起因している。

彼らが弱いのは、
不信仰の結果である。

彼らは、
神が彼らのために働いてくださることよりも、
自分自身の働きのほうを信じている。

彼らはなんでも自分で処理しようとする。

いろいろ考えてはみるが、
ほとんど祈ることをせず、
神に対する真の信頼に欠けている。

自分では信仰があるように思っているが、
それは、
一時の衝動にすぎない。

彼らは、
自分たちの必要、
あるいは、
神が喜んで与えようとしておられることを認めないために、
主のみ前に彼らの願いを述べつつ、
耐え忍ぶことをしないのである。

わたしたちの祈りは、
夜中にパンを求めた友人のように、
熱心に忍耐強く求め続けなければならない。

熱心に不屈の精神をもって祈りれば祈るほど、
キリストとわたしたちの霊的結合は親密になる。

信仰が増すにつれて、
受ける恵みも増すのである。

わたしたちのすべき分は、
祈って、
信じることである。

目を覚まして祈っていなさい。

目を覚まして、
祈りをお聞きになる神と協力しなさい。

「わたしたちは神の同労者である」ことを覚えていなさい
(Ⅰコリント3:9)。

あなたの祈りに調和して語り、
行動しなさい。

試練が来た時に、
あなたの信仰が真実のものであるかを証明するか、
それとも、
祈りが単なる形式であるかがわかるのでは、
格段の違いである。

(『キリストの実物教訓』124p)


祈り 160、161p

2011年6月21日火曜日

日々何を祈るのか




どんな仕事でも、
すべて神のみ働きの
一部であるから、
たとえ、
いかに卑しいことで
あろうと、
神聖なものと
みなければならない。

そして、
わたしたちの
日々の祈りは、
「主よ、
最善が尽くせるように
助けてください。

もっとよりよく
仕事ができる方法を
教えてください。

力と快活な精神を与え、
わたしの働きの中に
救い主の愛の奉仕が
実行できるようにしてください」
というのでなければならない。

(『ミニストリー・オブ・ヒーリング 2005』482p)


祈り 266p

2011年6月20日月曜日

自分はどこまでも自分とともに



どこへ行くにもついて来て、
いつまでたっても
別れることのない者
----自分----を
愛すべき者と見ることの
できる人ほど
幸せな人はないと言えよう。

その反対に、
自分を厄介者と考え、
嫌っている人ほど
不幸な人はない。

なぜなら、
自分はどこまでも
自分とともにあるからである。


*愛をつかむ

2011年6月19日日曜日

各地に光を求める人々がいる



今日、
各地に、
心の正しい人々がいる。

そして、
そのような人々に
天の光が輝いている。

もし、
彼らが、
義務であると知ったことに
忠実に従っていったならば、
彼らはもっと
光が与えられて、
ついに昔のナアマンのように、
生ける神、
創造主のほかに「全地のどこにも神のおられない」
ことを認めないわけにはいかなくなるのである。

「暗い中を歩いて光を得な」いすべての
まじめな人に対して、
「なお主の名を頼み、おのれの神にたよ」れという招きが
発せられている。

「いにしえからこのかた、
あなたのほか神を待ち望む者に、
このような事を行われた神を聞いたことはなく、
耳に入れたこともなく、
目に見たこともない。

あなたは喜んで義を行い、
あなたの道にあって、
あなたを記念する者を迎えられる。


国と指導者 上 219、220

2011年6月17日金曜日

2011年6月16日木曜日

信仰生活は




信仰生活は、
心を空にし、
清めることから
始まります。

そして
日々の祈りによって養われ、
次第に成長していくのです。


祈り 262p (『教会への証』第四巻535頁)

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2011年6月15日水曜日

神の忍耐がある者を不注意にする



人類の扱いにおいて、
神は悔い改めない者たちに対し
長く忍耐なさる。

人々に忠誠を呼びかけるために、
神はご自身がお定めになった器を用い、
もし彼らが悔い改めるなら、
彼らに十分なゆるしを提供される。

けれども神が忍耐強いために、
人々は神の憐れみに付け入る。

悪行に対する判決が速やかに
実行されないために、
人の子らの心は悪を行うことに凝り固まる。

魂を和らげて服従させるべき神の忍耐と辛抱が、
不注意で罪深い者たちに全く異なった影響を及ぼしている。

それは彼らに抑制を捨てるように仕向け、
抵抗することで彼らは強固になる。

彼らに対してそれほど多く忍耐されてきた神は、
彼らの悪に注意を払わないであろうと彼らは思う。

もし速やかな懲罰制度の世界に住んでいれば、
神への犯罪がこれほど度々起こることはないであろう。

しかし遅らされていても、
刑罰が不確かになることは決してない。

神の忍耐にも限度がある。

神の忍耐が限界に達すると、
その時 神は確実に刑罰を下されるであろう。

そして神が僭越な罪人を裁かれるときには、
最後まで徹底的になさるのである。

罪の深さを実感する者はほとんどない。

神は良いお方だから、
犯罪者を罰することはないと彼らはうぬぼれる。

しかしミリアム、アロン、ダビデや他の多くの人々の事例は、
行為と言葉、あるいは思いにおいてさえ、
神に対して罪を犯すのは安全でないことを示している。

神は無限の愛と憐れみのお方であるが、
同時にご自身を、
焼き尽くす火、
ねたむ神とさえ宣言しておられる。

Review and Herald 1900年 8月 14日

2011年6月14日火曜日

・・許せなくてもいい




人間は
神様と同じように
許せなくてもいい。

心底から
許せない苦しみ、
もどかしさが
あっていい。

いやむしろ、
そういう
自分の弱さを
受け入れること自体が、
「許し」の一部分を
構成しているように
思うのだ。

こういう「こだわり」と、
私たちは一生の間、
ともに過ごして行かねばならないのではないか。


*心に愛がなければ

2011年6月13日月曜日

約束は確実である



イスラエルの中に
信仰と力が
なぜ
もっとないのだろうかと、
私は
天使にたずねた。

「あなたがたは、
主の手を
あまりに早く
放し過ぎる。

あなたの願いを
み座に訴え、
強い信仰を持って
訴えつづけなさい。

約束は確実である。

あなた方が願い求めることは、 
受けると信じなさい。

そうすれば、そのとおりになる」
と天使が言った。


初代文集 152-153p

2011年6月12日日曜日

働く時は、わずかしか残っていない



われわれが
神のために働く時は、
わずかしか残っていない。

・・・・・

われわれは、
全的に主のために生き、
規律正しい生活と
敬虔な行状によって、
われわれが
イエスとともにあることと、
彼の柔和で謙遜な
弟子たちであることとを、
人々に示したいものである。

・・・・・

イエスが聖所を去られると、
聖であって義なる者は、
聖で義なるままである。

なぜなら、
そのとき彼らのすべての罪は消し去られて、
生ける神の印を押されているからである。

しかし、
不義で汚れた者たちは、
不義で汚れたままである。

なぜならば、そのとき、
彼らの犠牲、彼らの告白、彼らの祈りを、
父なる神のみ座の前にささげる祭司が
いないからである。

来たるべき怒りのあらしから
人々を救うためになすべきことは、
イエスが天の至聖所を去られる前に
しなければならない。


初代文集 114p

2011年6月10日金曜日

呪われたいちじく

寝る時も起きる時も



神の戒めと
イエス・キリストのあかしを
常に心に抱いていよう。

そして、
それに世の思いと煩いを
閉め出していただこう。

寝る時も起きる時も
これを瞑想しよう。

人の子の来られることを
常に考えて生活し、
すべての行動をとろう。

印する時は、
非常に短くやがて過ぎ去ってしまう。

四人の天使が
四方の風を引き止めている今こそ、
われわれの召しと選びとを
確かなものにする時である。


初代文集 130p

2011年6月9日木曜日

反対は福音を沈黙させなかった



キリストの昇天後、
使徒たちはみ言葉を
宣べ伝えながら
どこへでも行った。

彼らは、
教師としてまた癒す者として
キリストのみわざを証した。

エルサレムで、ローマで、
またその他の地において、
彼らの証は積極的で力強かった。

真理を受け入れることを拒んだユダヤ人たちは、
聖霊がキリストに従う人々と共におられたので、
彼らの力強い影響を認めざるを得なかった。

これが更に大きな反対を引き起こした。

しかし反対にもかかわらず、
キリストの十字架から二十年後、
ローマには活発で熱心な教会があった。

この教会は力強く熱心で、
主はそのために働かれた。


Review and Herald 1900年 3月 6日

2011年6月8日水曜日

全ての行為と秘密の事柄は裁かれる




詩篇記者は
「主のおきては完全」であると
言っている(詩篇19:7)。

単純、完璧、完全な
エホバのおきてはなんと
すばらしいものであろう!

それは非常に簡潔なので、
我々はどれも覚えることができるが、
それでありながら
神のみ心の全てを表現し、
外観の行動だけでなく、
人間の心の恩恵と意図、
願望と感情を認識するほどの
包容力がある。

人間の法律はこうはできない。

外観の行為を扱うことができるだけである。

人は法律違反をしても
人間の国からはその間違った行為は
隠されるかもしれない。

彼は犯罪者--盗人、殺人者、姦淫者--であっても、
長い間見つからないかもしれない。

法律は彼を有罪と宣告できない。

神の律法は、
その気はあっても機会がないので
外観の行為となっては現れない嫉妬、
ねたみ、憎しみ、悪意、復讐心、欲情、そして
魂を揺るがす野心をご覧になる。

そしてこれらの罪深い感情は、
「神はすべての技、並びにすべての隠れたことを
善悪ともに裁かれる」(伝12:14)日に
とがめを受けるであろう。


Selected Messages, book 1  217

2011年6月7日火曜日

ありのままの自分を



必要以上に
自分を卑下している時も、
必要以上に
自分をより良いものに
見せている時も、
いずれも不自由です。

たぶんたいせつなのは、
現実的な
ありのままの自分を知ること。

そして、
そのありのままの自分を
愛することです。


*人間としてどう生きるか

2011年6月6日月曜日

祝福の杯



[ローマ8:11を引用]

これらの言葉は、
死別を経験したすべての人にとって
どれほど尊いことだろう。

キリストは、
我々のすべての苦難の中で
慰めて下さる案内人
また慰め主である。

彼が我々に苦い杯をお与えになる時、
彼はまた祝福の杯をも
我々の手に持たせて下さる。

彼は、
心を委ねる気持と、
信じることから来る喜びと平安で満たして下さり、
主よ、
私の思いではなく、
あなたのみ心がなされますように、
と心から服従して言うことができるようにして下さる。


Letter 65a. 1894年

2011年6月5日日曜日

聖化と霊的交わり


聖化は
神との習慣的な交わりを
意味している。

Review and Herald
1906/3/15


2011年6月3日金曜日

2011年6月2日木曜日

堅固な足場



イエスは
天国へのはしごである・・・。

そして
神は我々に
このはしごを上るように召しておられる。

けれども我々は、
世俗的な宝物を背負いながら
そうすることはできない。

我々は、
神の事柄の前に
自らの都合と個人的利益を置く時、
間違いをしていることになる。

世俗的な所有物や環境の中には
救いがない。

人は、
世の富を持っているからといって
神の前に高められ、
美徳を所有している者として
認められるのではない。

もし我々がはしごを上る本当の経験を得たいなら、
上るたびにすべての障害物を捨てなくては
ならないことを学ぶであろう。

はしごの一段一段にしっかりと足を置かなくてはならない。


Signs of the Times 1899年 2月 1日

2011年6月1日水曜日

今という瞬間は



今という瞬間は、
今を先立つ
私の歴史の
集大成であると同時に、
今をどう生きるかが
次の自分を決定すると
いうことです。

人生は、
点のつながりとしての
一つの線であって、
遊離した今というものはなく、
過去とつながり、
そして未来とつながっているわけです。


*人間としてどう生きるか