2008年9月29日月曜日

常に試みられる神の子ら


神の子らは常に悩みの炉の中で試みられている。

もし彼らが最初の試練に耐えるなら、
二度目には同じような苦しい試練を通る必要はない。

しかし、もし彼らが失敗すると、
その試練が何度も何度も彼らにもたらされ、
その度ごとにより大きい試みとなり厳しくなる。

このようにして、
勝利を得て神への真実さを自ら証明する機会が
次々と彼らの前に置かれる。

しかし、もし彼らが反逆を続けると、
神は最後には彼らから御霊と光を取り除かざるを得なくなる。

                      Manuscript 69. 1912年



悲しみと試練はすべての人に必ず来る、そして、
主のための奉仕を行うのにふさわしい器として
その魂を磨き、清め、洗練するためにそれが働くときにのみ、
それは美しい。


                         Letter 69. 1897年


2008年9月25日木曜日

愛の引き綱


エホバは彼が聖であられるように、

ご自分の民に聖潔、清さ、純潔を求められる。

なぜなら、

聖くならなければ、誰も主を見ることができないからである。

誠実と真理によって神を礼拝する人々は、

神に受け入れられるであろう。

もし、教会員がすべての自己崇拝を捨て、

キリストの心を満たしていた神と相互に対する愛を心に受け入れるならば、

我々の天の父は彼らを通して絶えずご自身の力をあらわされるであろう。

神の民は、

神の愛の綱で一緒に引き寄せられなければならない。

その時、世界は神の奇跡を行う力を認め、

神が神の戒めを守る民の力であり、

助け手であることを知るであろう。

                           Manuscript 125. 1907年

2008年9月24日水曜日

さびしい壮大な状態ではない



自分の事で、
くよくよ思い悩み続けてはいけない。

イエスを思いなさい。

彼は聖所におられる。

そこはさびしい壮大な所ではなく、
主のご命令を行おうと待機している
千々万々の天使たちに囲まれている所である。

そして、
イエスは彼らに、
行って、
神に信頼している弱い聖徒たちのために働くように命じられる。

同じ助けが、
貴賎貧富の別なく備えられているのである。

                          Letter 134. 1899年

2008年9月22日月曜日

全日本大会に参加しました!


7月の初めにタイのバンコクで開かれた
南北アジア太平洋支部主催の
女性大会に参加してきました。

そのご報告をしなければと思いつつ、
教会の機関紙の作成や母の介護のために
実家にでかけたりする用事が 重なって、
7月、8月は時間ばかりが速く過ぎていきました。
(というわけで、すみませんでした・・・)

 そして、9月がやってきて、
今度はいよいよ全国から多くの信徒が集う
全日本大会のために上京することに・・・。

SSさんが先日書いてくださったように、
「ヨハネの黙示録」と
「神の深み」というすばらしい内容の本を
熟読していくという課題がありました。

普段はリビングにある回転椅子付きのテーブルで
何でも楽にするのですが、
主人が一緒だと色々と不都合なことも起るので、
夜は隣の和室にこもって(?)ひたすら聖書研究と瞑想に
ふけって数週間を過ごしていました。
(主人の多少けげんそうな顔をよそに・・・) 
 
 『リバイバルの鍵をひろいに行こう!』という
キャッチフレーズでもたれた全日本大会が、
どのような結果をもたらして 終わるのか楽しみでしたが、
多くの方々の切なる祈りに神様が応えてくださって、
たくさんの祝福をいただいて帰ることが できて
心から感謝しています。 

また、時間をみつけて
感じたことや学んだことなどを
お分かちできればと思っています。 
  

(広島三育学院教会女性部 品川)


 写真を数枚撮りましたので、ご覧いただければと思います。



北浦三育中学校・特別讃美歌


ジョニー・ウォン長老(通訳:海部明紀牧師)


山地 明 名誉牧師


讃美と証の集い


朗読劇

小グループ「ナフタリ組」


朝の体操
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
〝品川さん! ありがとう~〟


澄んだ目と濁った目

「体のともし火は目である。
目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、
濁っていれば、全身が暗い。

だから、あなたの中にある光が消えれば、
その暗さはどれほどであろう」マタイ6:22、23  

ここで言われている「目」とは人生の目的を表しています。
目的の定まった人生を送る人の目は生き生きと澄んでいます。
一方、人生に意味を見出すことのできない人の目は
どんより濁っていると言われます。  

目が澄んでいる、
この「澄んでいる」という意味は、まずは文字通り、
「濁っていない、澄んでいる」という意味です。

どうしたら、濁らず、澄んでいることができるのでしょうか?  

それについてはこの「澄んでいる」というギリシャ語の
もう一つの意味を知ると良くわかります。

この「澄んでいる」という言葉には、
「寛容な、寛大な」という意味があるのです。  

つまりそれは、他者に向かって流れている、という意味なのです。
ため水は濁ります。
しかし他に流れる水は新鮮です。
他人に益を与えようとすることを人生の目的とするとき人の目は、
心は、澄んでゆくのです。  

また、「澄んでいる」という言葉の意味には、
「健全な、正常な」という意味があります。
人の心は他者の幸福のために貢献しようとするときに、健康になります。  

もう一つ、この「澄んでいる」という言葉の意味には
「単純」という意味があります。
単純な信仰、単純なイエス様への信頼と服従こそ、
人間の健康な生き方を生み出すのだと思います。  

反対に、濁った目とは・・・
ここで使われている「濁っている」意味は、
ギリシャ語で「物惜しみする」「欲が深い」
つまり「けちである」という意味です。  

バークレーという神学者は、
この「物惜しみする」「欲が深い」
いわゆる「けちな」目には3つの不和がある、書いています。

1.自分自身に平和がありません。 

欲が深いと、他人の幸福をねたみます。
自己中心の心には憎しみと恨みが広がります。
平和は乱され、あるべき幸福、あるべき満足が奪われてゆくのです。

2.他人との平和がありません。 

欲深い心は多くの徳を傷つけて、他者との間に摩擦を生みます。

3.神様との平和がありません。 

主義主張の違う者どうしは深い交わりをすることができません。
他者に益を与えようとする愛の神様と、
欲深く、物惜しみする人の間には、深い交わりが、難しいのです。  

さらにエレン・G・ホワイトは濁った目の生き方について
次のような警告を与えています。

「自然界と同じ法則が、精神の世界の法則でもある。
暗闇の中に住む者はついに視力を失ってしまう。
・・・いつまでも悪を心に抱き、神の愛の訴えをあえて無視するならば、
罪びとは、善を愛する心と、神を慕う心と、
天の光を受ける能力そのものさえも失ってしまうのである」
                       (『祝福の山』114)  

暗闇が、やがては霊的な視力を奪うのです。
メキシコ北東部の洞窟にすむ、ブラインドケーブカラシンという魚がいます。
体長は最大で12cmほど。
この魚にはなんと目がありません。盲目の魚です。  

もともとは洞窟の周りにすんでいたメキシカン・テトラいう普通の魚でしたが、
洞窟の中、完全な暗闇の中にすみつくようになって、
用のなくなった目の上をウロコが覆ってしまったのです。  

私たちも同様です。
暗闇の中に留まるうち、やがては霊的な眼(まなこ)を失うのです。  

しかし最近、驚くべき発見がなされました。
異なる洞窟にすむブラインドケーブカラシンをかけ合わせたところ、
サイズは小さめですが、ちゃんとした目を持つ子どもが生まれたそうです。  

私たちも、考えてみたら、以前は暗闇の中に住む、
霊的眼の失われていた者であったのかもしれません。

しかし、誰かが、
そんな私たちをイエス様のところに連れてきてくれました。

そしてイエス様は私たちの目を、霊的な眼を開いてくださったのです。  

私たちの目はいつも澄んでいるとは限りません。
時には地上の富に心が奪われることもあるかもしれません。
しかしそのつど、自分は見えると言いはるのでなく、
盲目であることを認めながら、イエス様のもとに立ち戻りたいと思います。 

                   (SDA大阪センター教会牧師 藤田 昌孝)

2008年9月21日日曜日

神に栄光を帰すことに全く満足している天使たち



み座の前のセラピムは
神の栄光を見ていて、
うやうやしい畏敬の念に満たされているので、
彼らは自己満足の思いで自分を見たり、
自分や互いを賞賛する思いで
見たりすることは一瞬もない。

彼らの讃美と賞賛は
高く上げられた万軍の主のためであり、
その衣のすそは神殿に満ちている方へのものである。

彼らは、
全地が神の栄光で満ちる未来を見て、
讃美の勝ち歌が豊かな旋律の聖歌の中で次々に反響する、
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主」。

彼らは神に栄光を帰すことに満足しきっており、
神の臨在の中で、
神の是認というほほえみの下、
彼らにはそれ以上望むものは何もない。

神のみかたちを身につけて、
神に仕え、
神を礼拝することによって、
彼らの最高の大望は完全に達成されているのである。

           Review and Herald 1896年 12月 22日



2008年9月20日土曜日

地の果てに至るまで

画像の上でクリックし、大きく開いてからお読みください。


2008年9月19日金曜日

ブログに コメントを Ⅱ


日本人とブログの記事、
どっちが多い?

日本の人口は約1億2700万人
(総務省8月調査)、
ブログの記事は約13億5000万件
(総務省1月調査)。

1人10本は、
記事を書いている計算となる。

ところが、
月に1回以上更新されるブログは約300万。

なので、継続して書いているのは、
約40人に1人ぐらい。

スパムブログを考えるともう少し少ないのかもしれない。

・・・・・

書いている人たちのモチベーションは
どうやって維持されているのか。

ほとんどの人は
「励まされた」
「コメントをもらった」と、
圧倒的に「コメント」が挙げられている。

読んだら、ちょっとコメントを。
それがブログを支えていく。

          (日経パソコン 2008/9/22~)

2008年9月18日木曜日

ブログに コメントを


「世界で一番ブログが書かれているのは日本語」
という報告が出てから、
早1年半(米テクノラティ 2006年の調査)。

定期的に読むブログの数を聞くと、
5つ以内という答えが約半数。

これだけ日常的に読まれているブログですが、
コメントを書いたことがある人はまだ半分。

ちょっとした一言でも反響は大きな励ましになります。

あなたも一言コメントして、
インタラクティブ(双方向)ならではの
ステキ(?)なコミュニケーションを楽しみましょう~よ!

2008年9月17日水曜日

従順の模範



神がピリポに仕事を指し示されたとき、
その弟子は
「主はそういう意味でおっしゃったのではない」
とは言わなかった。

否、「そこで彼は立って出かけた」のであった。

彼は、神の御心に服従することを学び取っていた。

彼は、すべての魂が神の御目にとって貴重なものであること、
光を求めている人々と
彼らを助けることのできる人々を接触させるために、
天使が遣わされるということを認めていた。

当時のように、今日、天使たちは
人々を彼らの同胞の所に導こうとして待機している。

・・・ピリポとエチオピア人の経験は、
主が神の民を召される働きを表している。

             Review and Herald 1911年 3月 2日


2008年9月16日火曜日

宿題がありました



次の課題を
全日本大会までにご自分でなさって
くださいますようにお願いいたします

・・と、いうことで2か月前くらいから
参加のための準備がありました。


1 朝夜の個人的な主との交わりを毎日続ける。
  このために毎日、最低15分ずつを使う。

2 ヨハネの黙示録の音読(講師からの要請)

3 ヨハネの黙示録の通読(2度目は、黙読)

4 「神の深み」(ジョン・ポーリン著、山地明翻訳、福音社)の
  次の箇所に目を通す。
  はじめに、第3章、第6章、第8章。

5 ライフ誌8月号特集「神の深みを求めて」(山地明)を精読。

6 この大会のために、講師の山地明先生、ジョニー・ウォン長老、それに
  参加者や準備をしている伝道局の者のために祈る。


・・・・・


「神の深み」・・事前に、一人で読んでいて・・難しかったです。

「神の深み」研究会概要
・・黙示録をより深く学ぶために・・(第1回~第6回)

2007年10月~2008年3月まで、小田原教会にて、
月一度安息日午後、一回90分の集会を6回にわたって
開催された際に用いられた概要をいただきましたので、
今後、時間をかけて
黙示録をさらに深く理解させていただきたいと願っています。

もし、お入用の方がおられましたら、ご連絡ください。
コピーしてお送りいたします。


2008年9月15日月曜日

SDA全日本大会

セブンスデー・アドベンチスト全日本大会

〝リバイバルの鍵をひろいにいこう!〟

9月12日(金)~15(月・祝)

国立女性教育会館(NWECヌエック)

行ってきました。


毎日、ブログに最新ニュースをアップしようと

PCを持っていったのですが、

時間を見つけることができませんでした。


とってもギッシリのスケジュールで、

集会後も各部屋(私は二人部屋)ごとに

「静聴の時」というのがあって、

ヨハネ19、20、21章を一章ずつ夜ごとに、

読んで、瞑想・分かち合い・祈りのときを持ちました。

朝は朝で朝食までの間に、

二人で昨夜と同じ章を再び・・ディポーション。


・・・・・

テーマ:われらの希望キリスト

テーマ聖句:ヨハネの黙示録1:5~7

・・ 目的 ・・

第1の鍵 みことば

第2の鍵  伝 道

第3の鍵  祈 り

第4の鍵  交わり

・・・・・

メインプログラムは、

山地 明 名誉牧師による講演

「神の深み」

----黙示録をより深く学ぶために----

・・・・・

ジョニー・ウォン長老による講演

救霊グループ CARE(ケア)の原則

救霊のためにCAREグループを導入する

弟子ー成長のエンジン

・・・・・

安息日の午後にはステキな音楽プログラム

夜には、讃美と証の集い

スペシャル朗読劇

・・・・・

小グループの分かち合いの時間もあり、

12部族の名前がつけられたグループごとに

楽しいお交わりもできて

たくさんの学び・気づきとともに

あふれるほどの祝福をいただいて帰ってきました。

・・・・・

来年、2009年11月15日~19日

NSD支部の信徒大会が韓国であるそうです。

テーマ:祈り・聖霊・宣教

・・・・・

・・・・・

写真を写すのも忘れてしまいました・・

〝どなたか、参加された方、送ってくださ~い!〟

2008年9月13日土曜日

出会い

画像の上でクリックし、大きく開いてからお読み下さい。


鈴木陽子さんの告別式

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2008年9月12日金曜日

生死にかかわる2つのテスト



◆あなたは
これまでに安易な道を選ぼうとして、
真理から逸れたことはありませんか。

そのとき、
どう感じましたか。

次の試練のときには正しく実行できるように、
どんな方法で自分の信仰を強めたらいいでしょうか。

・・・・・・・・・・・・

(今週のメッセージ)~

日ごとに神に対する忠実さをあらわす機会を見失っていながら、
何か大きな仕事が持ち込まれるのを待っている人々が多くいる。

彼らは人生のささいな義務を一意専心果たすことを怠っている。

彼らのいわゆる大きな才能を働かせ得る
何かの大きな任務が与えられるのを待ち、
彼らの野心的な願望を満足させようとしている間に、
日々は過ぎ去っていく

(「国と指導者」 下巻 99ページ、 「希望への光」 569ページ)


2008年9月11日木曜日

我々の命の木である聖書



誰でも、
命の木は12種の実を結ぶということを
心に銘記しなければならない。

これは、
地上の我々の霊的働きを表している。

神の言葉は我々にとって命の木である。

聖書のすべての部分が必要である。

み言葉のすべての部分に、
学ばなければならない教訓がある。

それゆえ、
あなたは聖書研究の仕方を学びなさい。

この本は積み上げられたがらくたではない。

それは教育者である。

あなたが聖書研究によって真の益を得ることができる前に、
あなた自身の思想が実行に移されなければならない。

霊的腱や筋肉をみ言葉との関係に至らせなければならない。

聖霊はキリストのみ言葉を思い出させるであろう。

彼は心を明るくし、
研究心を導かれるであろう。

                          Letter 3. 1898年


2008年9月10日水曜日

真の宗教は決して偏狭なものではない



多くの人々は、
宗教は人を偏狭にさせる傾向を持っていると
感じているように見える。

しかし、
真の宗教は人を偏狭にしない。

能力を狭め、
心を偏狭にするのは宗教の欠如である。

人が偏狭である時、
それは彼が神の恵み、
天からの油注ぎを必要としている証拠である。

なぜならクリスチャンは、
万軍の神、主が、
地上でみ業を行い人々にみ心を示すために
用いられる者だからだある。

              Manuscript 3. 1892年


2008年9月9日火曜日

強い者は弱い者の弱さを負うべき



われわれは、
主に心から奉仕することができさえすれば、
何になってもよいし、
あるいは何にもならなくてもよいのである。

われわれは、
主のためなら、
イエスにならって十字架を負い、
試練と恥と迫害に耐えることをよろこぶのである。

「わたしたち強い者は、
強くない者たちの弱さをになうべきであって、
自分だけを喜ばせることをしてはならない」(ローマ15:1)

どんな魂でも、
信仰が弱く、
幼い子供のように足がよろめいても、
キリストを信じている限り、
軽く評価されることはない。

われわれに他人よりも有利な点があったら、
それが教育であろうと教養であろうと、
高潔な品性であろうと、
クリスチャンとしての訓練であろうと、
宗教経験であろうと、
われわれは、
われわれよりも恵まれていない人々にそれだけの負債があるのであって、
力の及ぶかぎり、
そうした人々に奉仕すべきである。

もしわれわれが強い者であったら、
弱い者の手をささえねばならない。

栄光の天使たちは、
天においていつも天父のみ顔を仰いでいるが、
神の子どもたちに奉仕することをよろこぶ。

天使たちは特に、
品性に多くの好ましくない傾向があるためにおののいている魂を見守っている。

天使は、
最も必要とされる場所におり、
また自己と最も困難な戦いをたたかい、
最も落胆させられるような境遇のうちにある人々といっしょにいる。

そしてキリストに真に従う者は、
この奉仕において協力するのである。

もしこうした小さな者たちの一人が敗北し、
あなたに対して悪いことをするならば、
その時彼を立ち直らせることがあなたの働きである。

先方から和解してくるのを待ってはならない。

                           (各時代の希望 中 219、220)


2008年9月8日月曜日

こころ




軽やかなこころは羽根よりも軽く
重いこころは鉄よりも重い。

軽やかなこころなら
険しい山道も越えられるけど

重たいこころなら
平地を歩くことさえ辛い。


2008年9月7日日曜日

本気


新しい週を迎えました。お元気ですか?
いま教区事務所では長老会が開かれ、
熱心な研修と議論が続いています。

今日は、最近読んで感動した記事を編集、転載します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
世界最高峰の自動車レース、F1。
当時、イタリアの名門フェラーリは勝利から遠ざかり低迷していました。
1996年、そこにドイツ人のミハエル・シューマッハが移籍してきます。

チーム・フェラーリ。
低迷はしているもののプライドは高い。
ドイツから来たシューマッハを馬鹿にしていたようです。

「何だ、あいつは・・・ドイツ人だろう。おれたちは名門フェラーリだ。」

その上、シューマッハは奇妙な行動をとっていました。
毎日、夜中まで続くミーティングが終わると、
シューマッハは誰とつるむことなく、
ひとりでドイツから持ち込んだ謎のトレーラーに乗り込んでいたのです。
家は別にあります。

シューマッハはひとりでトレーラーの中で何をしているのか?
ある日、スタッフが無理やり押し入りました。
「お前はいつもそこで何をしているんだ?!見せろ!」
トレーラーの中にはなんと、トレーニングマシンがズラリと並んでいました。
シューマッハはこう言ったそうです。

「俺はフェラーリを世界一にする」

その言葉にチームのメンバーは、何も言えませんでした。

次の日から、チーム・フェラーリは変わったそうです。
何が何でも、シューマッハを世界一にしてやろうと・・・。
F1のフェラーリチームだけでなく、
フェラーリの全社員が、シューマッハの写真を机の前に貼ったそうです。

「シューマッハとフェラーリを世界一にしよう!」

という文字とともに。

本気の思いだけが人を動かす。

この4年後、シューマッハとフェラーリは、世界一になりました。
フェラーリにとって、21年ぶりの世界一でした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

仕事するなら本気で仕事したいと思います。
召命に応えるなら本気で応えたいと思います。

本気の思いだけが、人を動かし、教会を動かし、神をも動かすのだと思います。

本気になろうよ!

                                     SDA西日本教区
                                     教区長:島田真澄


悪い作物を生じる種


激情にかられた言葉は、
誰も集めようとはしない悪い作物を生じる種をまくのである。

我々の品性は、
自分の言葉の影響を受けるが、
我々の言葉は他人の品性にさらに強い影響を及ぼす。

無限の神だけが、
不注意な言葉によってなされる害悪を測ることがおできになる。

これらの言葉が我々の唇から出るとき、
恐らく誰かを傷つけようなどとは思わないのだが、
それは内心の考えを表すもので、
悪の側に立って働くのである。

家族の輪の中で、
無遠慮で不親切な言葉を話すことにより、
何という不幸が生じてきたことだろうか。

粗暴な言葉は心に苦痛を与え、
何年もの間、
その痛みが消えることがないかもしれない。

クリスチャンと公言する者として、我々は、
信者であれ不信者であれ、
交際する人々に自分の言葉が与える影響というものを
よく考えなければならない。

我々の言葉は注目されており、
無遠慮な言い方によって害悪が生じるのである。

無遠慮で愚かな言葉の好ましくない影響は、
その後の信者または不信者との交際において
全く無効にすることはできない。

我々の言葉は、
魂をどんな食物で養っているかを証明するものである。

             Youth’s Instructor 1895年 6月 27日

2008年9月5日金曜日

恵みの賜物

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2008年9月4日木曜日

よろしゅうおあがり



むか~し、
大阪では、ご飯を食べ終わり
「ごちそうさま~」と言うと、、
お母さんは「よろしゅうおあがり」と声をかけていました。

食事を終えたのに「・・おあがり」って?

それは
「よろしく、お召し上がりになりましたね。よかったですね」
というような、やさしい心遣いを表している訳です。

「行ってきま~す」

「お早うお帰り~」というのも、
「学校や仕事など、いろいろ出かける用が、順調に無事に済んで、
早く帰ることができますように・・」というような願いが込められている
言葉なんだと聞いたことがあります。

〝ふ~ん・・・・〟

行間を読むってことが大事なんですね・・


2008年9月3日水曜日

キリストは今日も人の心に種をまく




キリストは、種まきのたとえによって、
天国のことを、大いなる農夫であられる神が、
神の民のために何をなさるかをお教えになった。・・・

罪からの救いを求めるのではなくて、
苦しみを避けるために、
福音を受けいれるものが多くいる。

宗教とは、
困難や試練から人間を解放するものであるかのように思っているから、
しばらくは喜んでいる。

彼らは生活が平穏な間は、
堅実なクリスチャンらしく見えるであろう。

しかし、はげしい誘惑に出会うと倒れてしまう。

彼らは、キリストのためにうける恥辱に耐えることができない。

神のことばが、心に秘めた罪を指摘し、
克己と犠牲を要求したりすると、
彼らはつまずいてしまうのである。・・・

神に仕えていると言いながら、
神に関する体験的知識を持っていないものが多い。

神のみこころを行いたいという願いも、
ただ一時の気まぐれによるもので、
心が聖霊に深く感動したためではない。

彼らの行動は、神の律法と一致していない。

口ではキリストを救い主として信じると言いながら、
キリストが彼らに罪に打ち勝つ力をお与えになることを信じない。

彼らは、生きた救い主と個人的接触がなく、
彼らの品性は、先天的、
および後天的欠陥を示している。・・・

真のきよめとは、
神への奉仕に専念することである。

これが真のクリスチャン生活の条件である。

キリストは、何一つ保留しない献身、
完全な奉仕を求めておられる。

キリストは、心と思いと魂と力とをご要求になる。

自己に執着していてはならない。

自己のために生きるものは、クリスチャンではない。

                       キリストの実物教訓 10. 24-26


2008年9月2日火曜日

カチッ・サー行動




「カチッ・サー行動」という言葉があります。

アメリカの社会心理学者チャルディーニが
論文の中で使っています。

テープレコーダーのボタンをカチッと押すと、
何をすべきか指示をする録音テープが
サーッと回り始めます。

すると、たいていの人はためらうことなく、
この指示に従ってしまう行動をこう呼んだのです。

このカチッ・サー行動が起こりやすい条件は、

1 自分にとって問題が複雑すぎる

2 判断する時間がない

3 やらなくてはならないことが多すぎる

4 感情的になっている

5 心理的な疲労感が多い


こうした状況のとき、相手が専門家や上司、先輩であると
言いなりになる危険性がある。

心身のゆとりをもって生活することが大事ですね。

〝これでいいの?〟と一瞬考えてみるだけで何かが違ってくるかも・・・・



2008年9月1日月曜日

同情に満ちた友



[ルカ18:1-8]

「どうぞ、わたしを訴える者をさばいて、
わたしを守ってください」というやもめの祈りは、
神の子らの祈りを代表している。・・・

彼らは、罪を犯しはしたが、
キリストが彼らの罪の重荷をご自分の魂の上に背負ってくださった。

そしてイエスは人類を、
火の中から燃えさしのように取り出された。

イエスは、
ご自分の人性によって人と結合され、また、
ご自分の神性によって、無限の神と一つに結ばれておられる。

助けが、滅びようとする魂にさしのべられた。
敵は責められたのである。・・・

もし、わたしたちが、神のご用のために自分をささげているならば、
神は、なんの備えもなさらないようなところへ、
わたしたちをおかれることはない。

わたしたちがどのような境遇にあっても、
導き手であられる主がわたしたちをお導きくださる。

どんな問題であっても主は確実な相談相手である。

また、どんな悲しみ、
死刑のなげき寂しさの中にあっても、
同情にあふれた友なるイエスがわたしたちとともにおられる。

                   (キリストの実物教訓 147. 150. 154)