激情にかられた言葉は、
誰も集めようとはしない悪い作物を生じる種をまくのである。
我々の品性は、
自分の言葉の影響を受けるが、
我々の言葉は他人の品性にさらに強い影響を及ぼす。
無限の神だけが、
不注意な言葉によってなされる害悪を測ることがおできになる。
これらの言葉が我々の唇から出るとき、
恐らく誰かを傷つけようなどとは思わないのだが、
それは内心の考えを表すもので、
悪の側に立って働くのである。
家族の輪の中で、
無遠慮で不親切な言葉を話すことにより、
何という不幸が生じてきたことだろうか。
粗暴な言葉は心に苦痛を与え、
何年もの間、
その痛みが消えることがないかもしれない。
クリスチャンと公言する者として、我々は、
信者であれ不信者であれ、
交際する人々に自分の言葉が与える影響というものを
よく考えなければならない。
我々の言葉は注目されており、
無遠慮な言い方によって害悪が生じるのである。
無遠慮で愚かな言葉の好ましくない影響は、
その後の信者または不信者との交際において
全く無効にすることはできない。
我々の言葉は、
魂をどんな食物で養っているかを証明するものである。
Youth’s Instructor 1895年 6月 27日
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