2008年9月22日月曜日

澄んだ目と濁った目

「体のともし火は目である。
目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、
濁っていれば、全身が暗い。

だから、あなたの中にある光が消えれば、
その暗さはどれほどであろう」マタイ6:22、23  

ここで言われている「目」とは人生の目的を表しています。
目的の定まった人生を送る人の目は生き生きと澄んでいます。
一方、人生に意味を見出すことのできない人の目は
どんより濁っていると言われます。  

目が澄んでいる、
この「澄んでいる」という意味は、まずは文字通り、
「濁っていない、澄んでいる」という意味です。

どうしたら、濁らず、澄んでいることができるのでしょうか?  

それについてはこの「澄んでいる」というギリシャ語の
もう一つの意味を知ると良くわかります。

この「澄んでいる」という言葉には、
「寛容な、寛大な」という意味があるのです。  

つまりそれは、他者に向かって流れている、という意味なのです。
ため水は濁ります。
しかし他に流れる水は新鮮です。
他人に益を与えようとすることを人生の目的とするとき人の目は、
心は、澄んでゆくのです。  

また、「澄んでいる」という言葉の意味には、
「健全な、正常な」という意味があります。
人の心は他者の幸福のために貢献しようとするときに、健康になります。  

もう一つ、この「澄んでいる」という言葉の意味には
「単純」という意味があります。
単純な信仰、単純なイエス様への信頼と服従こそ、
人間の健康な生き方を生み出すのだと思います。  

反対に、濁った目とは・・・
ここで使われている「濁っている」意味は、
ギリシャ語で「物惜しみする」「欲が深い」
つまり「けちである」という意味です。  

バークレーという神学者は、
この「物惜しみする」「欲が深い」
いわゆる「けちな」目には3つの不和がある、書いています。

1.自分自身に平和がありません。 

欲が深いと、他人の幸福をねたみます。
自己中心の心には憎しみと恨みが広がります。
平和は乱され、あるべき幸福、あるべき満足が奪われてゆくのです。

2.他人との平和がありません。 

欲深い心は多くの徳を傷つけて、他者との間に摩擦を生みます。

3.神様との平和がありません。 

主義主張の違う者どうしは深い交わりをすることができません。
他者に益を与えようとする愛の神様と、
欲深く、物惜しみする人の間には、深い交わりが、難しいのです。  

さらにエレン・G・ホワイトは濁った目の生き方について
次のような警告を与えています。

「自然界と同じ法則が、精神の世界の法則でもある。
暗闇の中に住む者はついに視力を失ってしまう。
・・・いつまでも悪を心に抱き、神の愛の訴えをあえて無視するならば、
罪びとは、善を愛する心と、神を慕う心と、
天の光を受ける能力そのものさえも失ってしまうのである」
                       (『祝福の山』114)  

暗闇が、やがては霊的な視力を奪うのです。
メキシコ北東部の洞窟にすむ、ブラインドケーブカラシンという魚がいます。
体長は最大で12cmほど。
この魚にはなんと目がありません。盲目の魚です。  

もともとは洞窟の周りにすんでいたメキシカン・テトラいう普通の魚でしたが、
洞窟の中、完全な暗闇の中にすみつくようになって、
用のなくなった目の上をウロコが覆ってしまったのです。  

私たちも同様です。
暗闇の中に留まるうち、やがては霊的な眼(まなこ)を失うのです。  

しかし最近、驚くべき発見がなされました。
異なる洞窟にすむブラインドケーブカラシンをかけ合わせたところ、
サイズは小さめですが、ちゃんとした目を持つ子どもが生まれたそうです。  

私たちも、考えてみたら、以前は暗闇の中に住む、
霊的眼の失われていた者であったのかもしれません。

しかし、誰かが、
そんな私たちをイエス様のところに連れてきてくれました。

そしてイエス様は私たちの目を、霊的な眼を開いてくださったのです。  

私たちの目はいつも澄んでいるとは限りません。
時には地上の富に心が奪われることもあるかもしれません。
しかしそのつど、自分は見えると言いはるのでなく、
盲目であることを認めながら、イエス様のもとに立ち戻りたいと思います。 

                   (SDA大阪センター教会牧師 藤田 昌孝)

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