2011年7月31日日曜日

耳かきの会「怪しげなもの」

(画像上をクリックすると大きく表示されます)

8月28日(日)
13:30~15:30
西日本教区会議室
(大阪センター6階)

河原 久牧師のお話です

この世に現れる怪しげなものと、
それに立ち向かう信仰について

〝お誘いあわせの上、ご出席くださいませ〟

「耳かきの会」とは
普段あまり取りあげられない聖書の中のテーマを
考えてみようという聖書の気楽な学びの会です




関西地区と関西地区女性会 共催


2011年7月29日金曜日

2011年7月28日木曜日

ネヘミヤの祈りは現代人の祈りの模範



神の働きを主唱する人たちは
心にイエス・キリストの精神が
満ちていなければなりません。

偉大な医師なるお方のみが
ギリアデの香油を
塗ることができるのです。

へりくだった心で、
聖霊に導かれて
ネヘミヤ記を精読することをお勧めいたします。

間違った考えは修正され、
正しい原則が見直され、
現代の世の秩序も変えられるかもしれません。

ネヘミヤは助けを求めて神に祈りました。

神はその祈りに答えられました。

そればかりではなく、
神は異教の王たちの心を動かし、
彼らがネヘミヤのところに助けを求めて来るようにされました。

そしてネヘミヤの敵たちがねたみから彼に反抗した時、
主は王たちを通してその目的を実行するために働かれました。

王たちが心からの必要を感じてささげた祈りにも
主は豊かに答えられました。


(『レビュー・アンド・ヘラルド』1911年3月23日)

祈り 239p

2011年7月27日水曜日

光の存在を信じながら生きること



祈りつづけているのに、
その願いが叶えられない人には
「切なく辛い思い」をすることが
〝必要〟なのでしょう。

それが必要だったと理解できるのは、
まだまだ先のことになると思います。

信仰というのは、
その間の〝闇の時間〟を、
光の存在を信じながら生きることと
いってもよいかも知れません。


*愛することは許されること

2011年7月26日火曜日

絶えず目を覚まし、祈りを怠らないこと



そもそも悪は、
目を覚まし
用心することと、
密室の祈りを
怠るところから
始まり、
それから次第に
信仰上の義務を
億劫に感ずる
ようになって、
怠慢に陥って
いきます。

そこに
サタンの入り込む隙が生じ、
次々といろいろな罪に
襲われるようになるのです。

クリスチャンはだれでも、
この世の誘惑、肉の激しい惑わし、
サタンの直接の攻撃にたえず囲まれています。

この点に関して安全な人はだれもいません。

過去にどのような経験に恵まれていたとしても、
また、どのような高い地位にあろうとも、
私たちはみな心して、
たえず祈ることが大切です。

日毎に聖霊の御支配のもとにいなければなりません。

さもなければ私たちは
サタンの支配下に容易に置かれてしまうでしょう。


(『教会への証』第五巻102p)

祈り 284-285p

2011年7月25日月曜日

自己を捨てきれない祈り



利己的な野心や
願望で満杯に
なった心で
祈りをささげては
なりません。

神は
私たちに
神の
み栄となるような
賜物を、
また
この世ではなく
天を選ぶようにと
勧めています。

神は
私たちの
高い目標に対しては力強い励ましを、
最も厳選した宝物には
安全の保証を与えてくださいます。

たとえこの世での宝が失せても、
神を信ずる者にとっては
どのような災害が起ころうとも、
決して失われることのない
天の富や財産こそが喜びなのです。


(『神の息子娘たち』188p)

祈り 412p

2011年7月24日日曜日

天使が祈りを聞いている




もし
人々の目が開かれて、
天の幻を見ることが
できたならば、
力強い
天使の一団が、
キリストの
忍耐の言葉を
守る者たちの周りに
駐屯しているのを
見るであろう。

天使たちは、
優しい同情の念をもって、
彼らの苦悩を見つめ、
彼らの祈りを
聞くのである。


(『各時代の大争闘』下巻406p)

祈り  394p

2011年7月22日金曜日

2011年7月21日木曜日

最高の出会い




与えられた一生の間に、
自分自身と出会い、
他人と出会い、
それらの出会いを通して、
多分人間にとって
最高の出会い
-----大いなる慈愛に溢れた、
人間を超える者と出会うこと
-----これこそが、
究極の
「素敵な出会い」と
呼ばれるべきものなのでは
ないでしょうか。


*すてきな出会い

2011年7月20日水曜日

導きを求める者にみこころは示される



神の御手に
導かれたいと
切に
願い求める者に、
神は
ご自身の
みこころを
豊かに
あらわされます。

もし
あなたが
その働きにおいて
思うような
実績や効果を
あげていないとしたら、
その原因は、
あなたが
神のみこころを
真に学び、
悟り、
そしてそれを行うという考えを
放棄してしまっているからでは
ないでしょうか。

(『教会への証』第三巻 466p)

祈り 354p

2011年7月19日火曜日

静まって神を知れ



「さあ、
あなたがたは、
人を避けて」と
イエスは
われわれに
命じられる
(マルコ6:31)。

イエスのみことばに
留意するとき、
われわれは
もっと強く、
もっと役立つ者となる。

弟子たちは、
イエスを求めて、
すべてのことをイエスに語った。

するとイエスは、
彼らを力づけ、
彼らに教えられた。

もしきょうわれわれが時間をとって
イエスのみもとに行き、
われわれの必要をイエスに告げるならば、
われわれは失望させられないであろう。

主は、
われわれの右側にいて助けてくださる。

われわれは、
もっと単純になり、
もっとイエスに信頼し、
もっとイエスを信用する必要がある。

・・・・・・・・・・

神の訓練を受けているすべての者のうちには、
世とその慣例や習慣に一致しない生活があらわされる。

だれでもみな、
神のみこころを知るために、
個人的な経験をする必要がある。

われわれは、
神が心に語られるのを個人的にきかねばならない。

ほかの声がみな沈黙して、
静けさのうちに神の前に待つとき、
魂の静寂は神のみ声を一層明らかにする。

神は、
「静まって、わたしこそ神であることを知れ」と
われわれに命じておられる(詩篇46:10)。

ここにだけ真の休息がみいだされる。

これこそ神のために働くすべての者にとって
効果的な準備である。

あわただしい群衆の中にあって、
人生の激しい活動の緊張のうちにあって、
このように活気づけられた魂は、
光と平和の雰囲気にとりかこまれる。

その生活はかぐわしい香りを放ち、
人々の心に達する神の力をあらわすのである

(各時代の希望 中 101.102)。

2011年7月18日月曜日

この地上にあなたしかいないかのように



あなたの
欠乏、喜び、
悲しみ、心配、
恐れを、
神のみ前に
留めておきなさい。

・・・主は
「いかに慈愛と
あわれみに
富んだかたであるか」。

その愛の心は
我々の悲しみを
察知なさり、
その事を口に出しただけでも、
同情を示されるのである。

・・・我々の平和に関わることで、
小さすぎて主がお気付きにならないものはない。

我々のどんなに暗い経験も、
暗すぎてお読みになれないということはない。

またどんな難問題でも
神には解釈できないということはない。

神の子らのいと小さき者にふりかかる災いも、
心を悩ます不安も喜びの声も、
くちびるからほとばしる真剣な祈りも、
天の父はことごとく注意し、
深い関心を払いたもうのである。

「主は心の打ち砕かれた者をいやし、
その傷を包まれる」。

神と各々の魂との関係は、
神が愛するみ子をお与えになった魂が
他にいないかのように、
明確で十分なものである

Temperance 104。

2011年7月17日日曜日

ふれあいが感じられる距離




一人で生まれ、
一人で死んで
ゆかなければ
ならない人間は、
その生涯の間、
ふれあいを
求め続けて
生きる。

その
ふれあいが
絶えず
新鮮で
あるためには、
ふれあえるだけの
近さとともに、
ふれあいが実感として感じられるだけの
距離もなければならないのは
当然であろう。


*愛をつかむ

2011年7月15日金曜日

2011年7月14日木曜日

神のテストは異なる



光を持たない異教徒と、
真理と光の知識が豊富にあるところに
住んでいる者たちに対する神のテストは、
全く異なる。

異教世界からやってきた者たちによる、
ある程度の義を、
神がお受け入れになったとしても、
その義が
キリスト教世界に生きる者たちによるとき、
それで満足なさる訳ではない。

多く与えられていないところから、
神は多くを要求なさらない。


Manuscript 130. 1899年


2011年7月13日水曜日

教会を通して神に栄光が帰される



神のみ名が
あがめられるようにと、
教会を通して
完成するように
主が計画された、
おどろくべき
みわざがある。

このみわざは、
エゼキエルが見た
いやしの川の幻の
中に描かれている。

「この水は東の境に
流れて行き、
アラバに落ち下り、
その水が、
よどんだ海にはいると、
それは清くなる。

おおよそ
この川に流れる所では、
もろもろの動く生き物が皆生き、

・・・川のかたわら、
その岸のこなたかなたに、
食物となる各種の木が育つ、
その葉は枯れず、
その実は絶えず、
月ごとに新しい実がなる。

これはその水が聖所から流れ出るからである。

その実は食用に供せられ、
その葉は薬となる」(エゼキエル47:8-12)

世の初めから神はこの世界に祝福を与えるために、
神の民を通して働いてこられた。

古代エジプトの国に対して、
神はヨセフをいのちの泉となさった。

ヨセフの誠実さが、
エジプトのすべての民の命を守った。

神はダニエルを通して
バビロンのすべての知者の命を救われた。

これらの救いは、実物教訓としてある。

それは、
ヨセフやダニエルが礼拝していた神とのつながりを通して、
世に与えられる霊的祝福を例証するものである。

キリストを心にやどしている者、
キリストの愛をこの世に示す者はみな、
人類の祝福のために神と共に働く者である。

他の人々に分け与えるために
救い主から恵みを受けるとき、
霊的いのちの潮が彼の全身からあふれ出るのである。


患難から栄光へ 上 4、5

2011年7月12日火曜日

人間の自由の本質



考えるということこそ
人間の尊厳の所由であり、
考えた末、
選ぶことに
人間の自由の本質がある。


*信じる「愛」を持っていますか


2011年7月11日月曜日

クリスチャンの最後の砦------祈り


私は深い信仰を持った人たちが、
苦悶の叫びをあげて神に嘆願しているのを見ました。

顔は青ざめ、
憂いの色を帯びて、
いかに彼らの心の内の苦悶が
激しいものであるかを表していました。

しかしその表情には
堅忍不抜の精神と
熱心さがあふれていました。

額からは大きな玉のような汗が
したたり落ちました。

・・・・・・

悪天使たちは、
彼らを取り囲み、
闇の中に閉じ込めて、
イエスを見ないようにしていました。

彼らが周りの暗黒に目を向けて失望し、
神への信頼をなくして、
神に不平不満をぶちまけるようになることを
悪天使たちはねらっているのでした。

唯一彼らにとっての安全は、
目を天に向けていることでした。

神の天使たちは
翼を力強く動かして
濃い暗黒を追い払ったのでした。


祈っている人たちが
なおも熱心な叫びを続けていると、
時々、
イエスからの光が彼らを励まし、
顔を輝かせました。

中には
この苦悶と祈りに加わらない人たちもいるのに
私は気づきました。

無関心で、
何も警戒していないようでした。

周りを暗黒で囲まれても
抵抗しようともしていませんでした。

またたく間に、
更に厚い暗黒が彼らを取り囲んでいました。

神の天使は
悪天使に抵抗しようともしない
彼らのところを去り、
熱心に祈っている人々を
助けに行きました。

全力で悪天使と闘い、
忍耐強く神を呼び求めて努力している
すべての人を助けるために、
神の天使たちが急いで
駆けていくのを私は見ました。

しかし
神の天使たちは
自らを助けようと努力しない人たちのところからは
去っていったのです。

まもなく
彼らの姿は見えなくなりました。


(『初代文集』437、438p)


祈り 429、430p


2011年7月10日日曜日

自分らしく生きる



一生というものは、
ぶつぶつ不平を
言っていても
時間がたつし、
そうでなくても
時間が同じに
たつので、
とにかく
自分らしく
生きることが
たいせつだと
思います。

*人間としてどう生きるか

2011年7月8日金曜日

2011年7月7日木曜日

「人間の証明」



待つこと、
耐えること、
他人と譲り合って
生きて行くこと、
これは
世の中がどれほど
便利になっても、
人間が
生きて行く上で
どうしても
必要なしつけ、
基本的生活習慣である。


なぜなら、
神ならぬ不完全な人間の社会において、
このようなことができることこそは
「人間の証明」なのだから。


*心に愛がなければ

2011年7月6日水曜日

イエスはどれだけ忙しく疲れていても祈られた



キリストは、
骨惜しみをされなかった。

時間で仕事をされなかった。

時間も霊も力も
人類を祝福する働きに
ささげられたのである。

一日中、
骨を折って働き、
さらに大きい仕事ができるように、
夜通し、
恵みと耐久力を求めて祈られた。

キリストの人性が強められ、
狡猾な敵のあらゆる欺瞞的な働きに
対処できる身構えができ、
人類向上の使命を果たす力を
強くするために、
イエスは強い叫びと涙をもって
天に祈りをささげられた。

キリストは働き人に向かって、
「わたしがあなたがたにしたとおりに、
あなたがたもするようにと、
模範を示したのである」と言われている
(ヨハネ13:15)。

(『ミニストリー・オブ・ヒーリング 2005』 509p)

祈り 278p

2011年7月5日火曜日

祈りがイエスの活力の源




主は毎日を、
つめかける群衆に
奉仕することに、
また、
律法学者たちの
反逆的な詭弁の
真相を
明らかにすることに
費やされた。

この
休む間もない働きは、
しばしば
主をとても疲れさせたので、
主の母や兄弟たち、
また弟子たちさえも、
主の生命まで犠牲になるのではないかと
心配したほどであった。

しかし、
骨の折れる一日を終えて
祈りの時を過ごされた主のみ顔には、
平安の色が認められ、
さわやかな気分がその身辺にただようように思われた。

神と幾時間もお過ごしになってから、
主は朝ごとに、
天の光を人々にもたらすために出て来られた。


(『祝福の山』 127、128p)

祈り 274p

2011年7月4日月曜日

祈りの習慣をつける



物質的な食物が
肉体の健康に
欠かせないように、
日ごとの祈りは
恵みにおける成長、
また
霊的生命そのものに
欠かすことの
できないものです。

私たちは
祈りによって、
しばしば思いを
神に向けるように
自分自身を
習慣づけるべきです。

もし心が迷うようなら、
それを連れ戻さなければなりません。

忍耐強い努力によって、
習慣は最終的に容易なものとなります。


(『清められた生活』 90p


祈り 337p

2011年7月3日日曜日

同じことが二度と起こらない人生



同じことが
二度と起こらない
人生です。

同じようなことは、
何度か起きるかも
知れません。

しかしながら、
まったく同じことは
二度と起きません。

そのことに
淋しさを感じる時も
あるけれども、
そのことに
慰められる時も
たくさんあると
思います。


*人間としてどう生きるか

2011年7月1日金曜日