2011年6月15日水曜日

神の忍耐がある者を不注意にする



人類の扱いにおいて、
神は悔い改めない者たちに対し
長く忍耐なさる。

人々に忠誠を呼びかけるために、
神はご自身がお定めになった器を用い、
もし彼らが悔い改めるなら、
彼らに十分なゆるしを提供される。

けれども神が忍耐強いために、
人々は神の憐れみに付け入る。

悪行に対する判決が速やかに
実行されないために、
人の子らの心は悪を行うことに凝り固まる。

魂を和らげて服従させるべき神の忍耐と辛抱が、
不注意で罪深い者たちに全く異なった影響を及ぼしている。

それは彼らに抑制を捨てるように仕向け、
抵抗することで彼らは強固になる。

彼らに対してそれほど多く忍耐されてきた神は、
彼らの悪に注意を払わないであろうと彼らは思う。

もし速やかな懲罰制度の世界に住んでいれば、
神への犯罪がこれほど度々起こることはないであろう。

しかし遅らされていても、
刑罰が不確かになることは決してない。

神の忍耐にも限度がある。

神の忍耐が限界に達すると、
その時 神は確実に刑罰を下されるであろう。

そして神が僭越な罪人を裁かれるときには、
最後まで徹底的になさるのである。

罪の深さを実感する者はほとんどない。

神は良いお方だから、
犯罪者を罰することはないと彼らはうぬぼれる。

しかしミリアム、アロン、ダビデや他の多くの人々の事例は、
行為と言葉、あるいは思いにおいてさえ、
神に対して罪を犯すのは安全でないことを示している。

神は無限の愛と憐れみのお方であるが、
同時にご自身を、
焼き尽くす火、
ねたむ神とさえ宣言しておられる。

Review and Herald 1900年 8月 14日

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