不信仰の形はいろいろある。
なぜなら、サタンがあらゆる機会をねらって
自分の何らかの性質を押し込もうとしているからである。
生まれつきの心の中には、一生懸命に努力して成功すると、
称揚されたり威張ったりする傾向がある。
しかし自己称揚が神の働きに入る余地は全くない。
あなたがどれほど知性があろうと、どれほど熱意をもって
熱心に働こうと、誇ろうとする自分の傾向を追い払って、
神のみ霊に導かれるために自己を明け渡さない限り、
敗北の地にいるのである。
魂における霊的な死は、霊的な誇りとゆがんだ経験によって
証明される。
そのような経験を持つ人々は、自分の歩む道をまっすぐに
することがない。
誇りが育てられると、もし受け入れられれば祝福と恵みとなる
頭脳そのものが、汚染されてしまう。
また、もし栄光が神に帰されるなら、命から命に至る香りとなる
勝利そのものが、自己称揚によって濁ってしまう。
これらのことは小さな事、気をつけるほどのこともないように
見えるかもしれないが、このようにしてまき散らされた種は
確実に刈り入れられる。
サタンが彼の仕事に使うのは、あまりにもありふれているので、
ほとんど気に留められることがないような小さな罪に見えるのである。
Manuscript 47. 1896年
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