2007年12月31日月曜日

「御言葉の原則」と「神の愛の原則」


 米国の大衆伝道者ムーディが、
ある集会で説教した後、ひとりの聴衆に語りかけました。

「あなたはクリスチャンですか」。
「いいえ。でも、クリスチャンであればいいなあ、と
今では思っています」。

 そこでムーディは、さっそく聖書から神の約束の言葉を示して、
イエス様を信ずるようにすすめます。

しかし悲しそうに求道者は言いました。
「先生、せっかくですが、
私はどうしても救われたと感じることができないのです」。

 ムーディはこの時、この人の信仰の妨げが何なのかが分かりました。
ムーディは求道者に質問します。
「あなたはノアの物語をご存じですね。
ノアを救ったのは、ノアの感じだったのでしょうか、
それとも箱舟だったのでしょうか」。

 求道者はしばらく考えていましたが、
彼の顔が、やがてパッと明るくなりました。

「先生、分かりました。ありがとうございます。
イエス様を私の救い主としてお受けいたします」。

 私たちの気分や、感情、私たちの取り巻く状況、
それは刻一刻と変わります。そしてそれらはやがて無くなります。
それら移り変わるもの、失われるものを私たちの人生の根拠におくならば、
私たちの人生は移り変わりの激しい、安定の欠いた人生となるでしょう。

 そればかりか、人生で決して失ってはならないものまでも、
失ってしまうことさえあるのです。

私たちは決して変わることのないもの、
滅びることがないものを人生の根拠におく必要があります。

 聖書の中には、決して滅びないものが、少なくとも二つ書かれています。
一つは、聖書の御言葉です。

「草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は、とこしえに残る」
                       (ペテロ第一の手紙1:24、25)。

 もう一つは神の愛です。

「預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。
しかし、愛はいつまでも絶えることがない」(コリント第一の手紙13:8)。

 私たちはこの二つの原則、
「御言葉の原則」と、「神の愛の原則」に立つことができます。

「御言葉の原則」とは・・・ 「わたしの目には、あなたは高価で尊い。
わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4新改訳)。 と言われても、
私が神様に愛されているとは、とても思えない、そのような気分、
状況のときがあります。

しかし、主が私を愛されていることは、
「聖書にそのように書かれている」という根拠で受け止めることができます。

「神の愛の原則」とは・・・  神様は私たちを愛してくださいます。
私たちの信仰は神様との個人的な愛の関係の中で成長します。

神様の御言葉は、
私たちの幸せを誰よりも願われる神様の親心、愛のメッセージです。

 私たちは、そんな神様の親心を受け止めて、そのお言葉に従いたいのです。
いやいやながらではなくて、神様への愛の告白として、
神様のお言葉を大切にしてゆきたいのです。

そのようにして、神様を愛させていただきたいのです。

 このように考えてゆきますと、「御言葉の原則」と「神の愛の原則」は、
二つセットで成り立つことが分かります。

もし、愛だけが先行すれば、それは御言葉の裏づけのない、
変わりやすい愛、単なる気休めの愛です。

また、その御言葉が神様との愛の関係で用いられなければ、
それは、人を脅かし、強制し、神様と人との関係を引き裂くことになります。

ですから、「御言葉の原則」と「神の愛の原則」がセットで、
互いを生かし合っているのです。

                       SDA大阪センター教会牧師 藤田昌孝

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