米国の大衆伝道者ムーディが、
ある集会で説教した後、ひとりの聴衆に語りかけました。
「あなたはクリスチャンですか」。
「いいえ。でも、クリスチャンであればいいなあ、と
「いいえ。でも、クリスチャンであればいいなあ、と
今では思っています」。
そこでムーディは、さっそく聖書から神の約束の言葉を示して、
イエス様を信ずるようにすすめます。
しかし悲しそうに求道者は言いました。
「先生、せっかくですが、
私はどうしても救われたと感じることができないのです」。
ムーディはこの時、この人の信仰の妨げが何なのかが分かりました。
ムーディは求道者に質問します。
「あなたはノアの物語をご存じですね。
ノアを救ったのは、ノアの感じだったのでしょうか、
それとも箱舟だったのでしょうか」。
求道者はしばらく考えていましたが、
彼の顔が、やがてパッと明るくなりました。
「先生、分かりました。ありがとうございます。
イエス様を私の救い主としてお受けいたします」。
私たちの気分や、感情、私たちの取り巻く状況、
それは刻一刻と変わります。そしてそれらはやがて無くなります。
それら移り変わるもの、失われるものを私たちの人生の根拠におくならば、
私たちの人生は移り変わりの激しい、安定の欠いた人生となるでしょう。
そればかりか、人生で決して失ってはならないものまでも、
失ってしまうことさえあるのです。
私たちは決して変わることのないもの、
滅びることがないものを人生の根拠におく必要があります。
聖書の中には、決して滅びないものが、少なくとも二つ書かれています。
一つは、聖書の御言葉です。
「草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は、とこしえに残る」
(ペテロ第一の手紙1:24、25)。
もう一つは神の愛です。
「預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。
しかし、愛はいつまでも絶えることがない」(コリント第一の手紙13:8)。
私たちはこの二つの原則、
「御言葉の原則」と、「神の愛の原則」に立つことができます。
「御言葉の原則」とは・・・ 「わたしの目には、あなたは高価で尊い。
わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4新改訳)。 と言われても、
私が神様に愛されているとは、とても思えない、そのような気分、
状況のときがあります。
しかし、主が私を愛されていることは、
「聖書にそのように書かれている」という根拠で受け止めることができます。
「神の愛の原則」とは・・・ 神様は私たちを愛してくださいます。
私たちの信仰は神様との個人的な愛の関係の中で成長します。
神様の御言葉は、
私たちの幸せを誰よりも願われる神様の親心、愛のメッセージです。
私たちは、そんな神様の親心を受け止めて、そのお言葉に従いたいのです。
いやいやながらではなくて、神様への愛の告白として、
神様のお言葉を大切にしてゆきたいのです。
そのようにして、神様を愛させていただきたいのです。
このように考えてゆきますと、「御言葉の原則」と「神の愛の原則」は、
二つセットで成り立つことが分かります。
もし、愛だけが先行すれば、それは御言葉の裏づけのない、
変わりやすい愛、単なる気休めの愛です。
また、その御言葉が神様との愛の関係で用いられなければ、
それは、人を脅かし、強制し、神様と人との関係を引き裂くことになります。
ですから、「御言葉の原則」と「神の愛の原則」がセットで、
互いを生かし合っているのです。
SDA大阪センター教会牧師 藤田昌孝
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