2007年12月31日月曜日

「御言葉の原則」と「神の愛の原則」


 米国の大衆伝道者ムーディが、
ある集会で説教した後、ひとりの聴衆に語りかけました。

「あなたはクリスチャンですか」。
「いいえ。でも、クリスチャンであればいいなあ、と
今では思っています」。

 そこでムーディは、さっそく聖書から神の約束の言葉を示して、
イエス様を信ずるようにすすめます。

しかし悲しそうに求道者は言いました。
「先生、せっかくですが、
私はどうしても救われたと感じることができないのです」。

 ムーディはこの時、この人の信仰の妨げが何なのかが分かりました。
ムーディは求道者に質問します。
「あなたはノアの物語をご存じですね。
ノアを救ったのは、ノアの感じだったのでしょうか、
それとも箱舟だったのでしょうか」。

 求道者はしばらく考えていましたが、
彼の顔が、やがてパッと明るくなりました。

「先生、分かりました。ありがとうございます。
イエス様を私の救い主としてお受けいたします」。

 私たちの気分や、感情、私たちの取り巻く状況、
それは刻一刻と変わります。そしてそれらはやがて無くなります。
それら移り変わるもの、失われるものを私たちの人生の根拠におくならば、
私たちの人生は移り変わりの激しい、安定の欠いた人生となるでしょう。

 そればかりか、人生で決して失ってはならないものまでも、
失ってしまうことさえあるのです。

私たちは決して変わることのないもの、
滅びることがないものを人生の根拠におく必要があります。

 聖書の中には、決して滅びないものが、少なくとも二つ書かれています。
一つは、聖書の御言葉です。

「草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は、とこしえに残る」
                       (ペテロ第一の手紙1:24、25)。

 もう一つは神の愛です。

「預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。
しかし、愛はいつまでも絶えることがない」(コリント第一の手紙13:8)。

 私たちはこの二つの原則、
「御言葉の原則」と、「神の愛の原則」に立つことができます。

「御言葉の原則」とは・・・ 「わたしの目には、あなたは高価で尊い。
わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4新改訳)。 と言われても、
私が神様に愛されているとは、とても思えない、そのような気分、
状況のときがあります。

しかし、主が私を愛されていることは、
「聖書にそのように書かれている」という根拠で受け止めることができます。

「神の愛の原則」とは・・・  神様は私たちを愛してくださいます。
私たちの信仰は神様との個人的な愛の関係の中で成長します。

神様の御言葉は、
私たちの幸せを誰よりも願われる神様の親心、愛のメッセージです。

 私たちは、そんな神様の親心を受け止めて、そのお言葉に従いたいのです。
いやいやながらではなくて、神様への愛の告白として、
神様のお言葉を大切にしてゆきたいのです。

そのようにして、神様を愛させていただきたいのです。

 このように考えてゆきますと、「御言葉の原則」と「神の愛の原則」は、
二つセットで成り立つことが分かります。

もし、愛だけが先行すれば、それは御言葉の裏づけのない、
変わりやすい愛、単なる気休めの愛です。

また、その御言葉が神様との愛の関係で用いられなければ、
それは、人を脅かし、強制し、神様と人との関係を引き裂くことになります。

ですから、「御言葉の原則」と「神の愛の原則」がセットで、
互いを生かし合っているのです。

                       SDA大阪センター教会牧師 藤田昌孝

西日本女性会ニュース 第3号発行










2007年12月30日日曜日

年末お助け簡単一品



薄あげを半分に切って、玉子を入れて煮ます。

切り口側は、楊枝で縫うように止めて。


味付けはお好きなように・・

ウチは薄味で数分煮るだけ。

こんな感じ・・

あと一品欲しいとき、簡単にできます。

楊枝を抜き取り、半分に切って盛り付けます。

日々の経験


[ヨハネ15:8を引用]

実を結ぶとはどういうことだろうか。

週に一度集会にやって来て、祈り、
あるいは社交的集まりにおいて証を
することだけを言うのではない。

我々は日々ぶどうの木とつながっていることを確認し、
家庭で、また仕事をしているときに、
また人生に関わる万事において、
キリストの霊を表しているべきである。

キリストとたまにつながるだけで十分であり、
時折キリストを告白するから、
自分たちは生きている枝と見なされ得ると考えているかのように
行動する人が多い。

しかしこれは欺瞞である。

枝はぶどうの木に接木され、繊維の一つ一つがぶどうの木に
つながるまで、ぶどうの木の根と幹から樹液や栄養といった
日々必要なものを補給し、それが親株と一つになるまで、
そこに留まっているべきである。

ぶどうの木に栄養を与える樹液が枝に栄養を与えねばならず、
これがキリストにつながっている者の生活においてはっきりと
見られるであろう。

肉によってでなく、霊によって歩む者の内に、
キリストの喜びが成就するからである。


                   Signs of the Times  1892年 4月18日

2007年12月28日金曜日

祈りの棚卸し

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豊かさと貧しさ

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今週のメッセージ


 背いていく人類に、 神は、
「わたしのはらわたは彼のためにわな
なく」 と訴えます(エレ31:20/新改訳)。

限られた感性の中からしか想像し得ませ
んが、 神の私たちに対する思いは概念的なものではなく、
私たちが肉体に経験するものの延長線上にあることがわかります。

人類に向かって注がれる神の愛は、
神のうちで「痛み」となっていると神学者の北森嘉蔵氏は説きました。

愛する価値のない者を愛することで神はすでに痛みを経験しているのです。

そして「神の痛み」は、イエス・キリストの十字架の上で
人類の前に集約されました。

 神の痛みを瞑想します。
失うことができない、あなたは滅んではならないと私たちにせつなく
訴える神は、愛するだけでも痛むのに、そのひとりでも神から離れて
いくことにどのように耐えていくのでしょうか。

ご自分のはらわたが痛むほど私たちを愛する神は、
キリストの十字架でその痛みのきわみを人類に示しました。

それなのに、人は失われていく。

ひとりでも失われるということは神にとってどれほどの痛みなのでしょうか。

その痛みをどのように携えていくのでしょうか。

これは私には想像もつかない痛みです。

ただ、私たちはやはり
神のためにも失われてはならないのだという結論は出てきます。

私たちの救いは神のためにもあると言えます。感謝します。


                        ーー寄稿メッセージーー

                          永田英子 東京衛生病院チャプレン

2007年12月27日木曜日

人間の知性対神の知恵


 多くの者は人間の知性を高め、
人間の知恵を偶像にし、
人々の意見を、啓示された神の知恵の上に置く。

そうすることはサタンが働く機会を与えることになる。

そして我々が想像する以上に反キリストの霊ははるかに広く行き渡っている。

 神を知らない世の処世訓が、教会の意見に作用している。 

人々の目には、空しい哲学やいわゆる偽りの科学が、
神の言葉より一層価値があるのである。

人の救いのために、神の仲保者は必須のものではないという意見が
広くゆきわたっている。

世の識者と言われている人々によって、
人を啓蒙するために進められている種々の理論が、
キリストや彼の使徒たちによって
教えられている真理より重んじられ、信頼されている。

 エデンにおいてエバを誘惑した偽りの霊が、
今日地上の大多数の住民に受け入れられている。

キリスト教の世界すら、神の霊によって回心させられるのを拒み、
暗黒の君が光の天使の衣を着て彼らの所に来る時、
彼に聞き従うのである。

反キリストの霊は、以前より非常に広い範囲まで
世界に行き渡っている。

 我々はまさに、試みられ、清められる時代に生きている。

地や海における洪水、台風、竜巻、豪雨、災害など、
非常に驚くべき種類のしるしは万物の終わりが近づいて
いることを知らせている。

神の裁きは、人々がキリストが直ぐに来られるという事実に
目覚めるよう、世に降り注いでいる。


                       Review and Herald 1892年 11月8日

2007年12月26日水曜日

祝福の杯


[ローマ人への手紙8:11を引用]

これらの言葉は、
死別を経験したすべての者にとって
どれほど尊いことだろう。

キリストは、我々のすべての苦難の中で慰めて下さる
案内人または慰め主である。

彼が我々に苦い杯をお与えになる時、
彼はまた祝福の杯をも我々の手に持たせてくださる。

彼は、心を委ねる気持と、信じることから来る喜びと平安で
満たして下さり、
主よ、私の思いではなく、あなたのみ心がなされますように、
と心から服従して言うことができるようにして下さる。


                        Letter 65a, 1894年

2007年12月25日火曜日

レンコンのきんぴら

今日は、安かった蓮根を買ってキンピラにします。



小さめの〝ころん・・〟としたのが三つ。
縦半分に切って、薄切りに。

温めたフライパンに
少しの油を入れて、炒めます。


火を小さくして、蓋をしてもいい・・

・・蓮根が透き通るくらいになったら、
「しょうゆ3T : みりん1T」

一味を振り入れてもいいし、青海苔でも、
ゴマもおいしい・・
お好きな味付けにしてどうぞ!



ウチのは、今日はシンプルに、
火を止めてからごま油を少々入れただけ。


お宅のは、また違った作り方でしょうか?
そのときは、ぜひ教えてくださ~いぃ。

2007年12月24日月曜日

ダイエットとの共通点


持たない暮らしの実践と、とても似ているものがあります。
それは「ダイエット」です。

消費カロリー(運動量)が、摂取カロリー(食べる量)より大きければ、
絶対に体重は減る。

「出ていくモノの量が、入ってくるモノの量と同じであれば、
モノは増えない」

「入ってくるモノの量が、出ていくモノの量より多ければ、
モノは増えていく」

本当に、単純な原理なのです。

ですから、持たない暮らしをしたいのであれば、
「入れずに、出す」ことを、あらゆる面で心がけることが
大切になってきます。


                            ・・・・金子由紀子・・・・

2007年12月23日日曜日

二つのクリスマスコンサート

12月23日(日)大阪センター教会では、
二つのクリスマス集会が開かれました。

12:00~
教会で結婚式を挙げられた方々をご招待して
「ホームカミング・クリスマス会」

お子さまもご一緒に
毎年、参加してくださる方々もおられます。

今年は、
韓国からコンサートツアーで来日の
「ビューティフル・ピープル」の皆様方による
コンサートもありました。
終了後、一緒に記念撮影。

18:30~
「教会クリスマス・コンサート」

~Beautiful People~



教会員も
お友だちやお知り合いの方々とご一緒に
肩を並べて美しい歌声に聞き入っていました。

クリスマスは、初めての人を教会にお誘いしやすいときですね。

今日、初めてご参加くださった方々が、
また、教会にお顔を出してくださるように祈ります。

2007年12月21日金曜日

最上のわざ

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「信仰義認」と「新生」


お元気ですか?
各教会、クリスマスプログラムもたけなわ、お忙しいことと思います。
今年も残り僅かとなりました。
感謝と賛美の内に2007年を終えたいものですね。

リバイバルが訪れるとき、
特にふたつの聖書の教え、教理が顕著になると言われる。

ひとつめは「信仰義認」。
われわれの救いは100%キリストの十字架の恵みに拠り、
われわれには救いのために何の功績もない。
ただキリストの恵みを信仰によって受け取るのみ。
宗教改革の発端ともなった重要かつ唯一無二の福音の真髄である。

リバイバルのとき男も女もみな自分に絶望する。
自分の善良さも正義感も教会生活も所属教派も
自分に属するものには何の価値もないことにおののく。
徹底的に不義なるものとされた者の上に神は救いの手を差し伸べられる。

「信仰義認」の教えはまた、
たとえどのような不義なる者であろうと、
彼が信じるとき、いつでもどこでも救われるという真理を示している。
そこに聖霊の大いなる働きがあり、素直な信仰があるならば、
救いの出来事が不思議な力をもってそこに確かに起こるのである。
リバイバルの時には教会の内外で
信じられないような救いの出来事が大量に起こるのである。

ふたつめは「新生」。
神の国に入る者は誰でも新しく生まれ変わっていなければならない。
神の国にペーパー試験はない。口頭試問もない。行動観察もない。
ただ、「新生」の事実だけが見透される。
大切なのは宗教的であることではない。
そのような偽善はすべて打ち砕かれる。
ただ「新生」の事実だけが求められる。
聖霊の働きの中でただキリストだけを主とし、心から神を礼拝する者、
その者への回心がリバイバルでは強調される。

人々の「新生」のために神が働かれるのがリバイバル。
神は、人を新しく創り変えようと強く働かれる。
その生活に介入し悔い改めと回心を促す。
打ち砕きと恵みの愛とを与えられる。
リバイバルの時には人々は飢え渇くように「新生」を求め、
神はその求めにあふれるばかりにお応えになるのである。

リバイバルは祈り求めるものに臨むもの。
安穏と現状を肯定するところには無縁のもの。
キリスト降臨を祝うクリスマスの季節は、
まさにリバイバルを祈り求めるにふさわしい季節。
世界が、教会がいまキリスト、救い主を必要としています。

明日の安息日、あなたの教会にキリストが降臨されますように!


                               SDA西日本教区
                               教区長:島田真澄 

エリとむすこたち


家庭のキリスト教がどんなものであるかの
最良の試験は、その影響によって、
どんな型の品性が生まれるかということである。

どんな明確な信仰の表明よりも、
行動のほうがより大きな力がある。

信仰を持っているという者が、
神を信じる有益性についてのあかしとして、
秩序ある家庭を築くように、
熱心にうまずたゆまず努力することをしないで、
家の治め方がゆるく、
子供たちの悪い欲望をほしいままにさせるならば、
エリと同様に、神の働きにそしりを招き、
子供たちとその家を破滅させる。

                        希望への光 302

2007年12月20日木曜日

持たないためのモノとの付き合い方



モノを持ちすぎないために一番大切なことは、
「これがあれば、ほかには要らない」
と思えるほど、気に入ったモノ、大好きなモノと暮らすことです。

しかし、往々にして、モノを手に入れる時に、
案外このことは忘れられている場合が多いのです。

「安かったから」

「みんなが持っているから」

という安易な理由で買ってしまったモノは、
心から満足することがないため大切に使われることがなく、
ともすればまた似たようなつまらないモノを買って、
心のすき間を埋めたくなってしまいます。

 そうならないためには、普段から自分の本当の嗜好を
自分でよく知っておくことが大切です。


                           ---金子由紀子---

代用品


私たちが用いる解決法の多くは
圧力を軽減することはあっても、
問題を解決し、将来的な解決法について
教えてくれるとは限りません。

そうしてくれるのは神から与えられる助けだけです。

問題は、私たちが神ご自身よりも神の代用品に
頼る傾向があるということです。

私たちが神の代用品として用いるものには次の3つがあります。


1 神の導きを必要としているのに、人間の論理や過去の経験に頼る。

2 神の答えを必要としているのに、自分の心から問題を締め出す。

3 神の力を受けるため祈りが必要なときに、現実から逃れ、神を避ける。


◆ 緊張に襲われたとき、あなたはどんな行動をとりますか。
   食べることですか、テレビを見ることですか、祈ることですか、
   神に従うことですか。

   それはあなたについて、あなたのすべきことについて何を教えていますか。

2007年12月19日水曜日

自己称揚の種は確実に刈り入れられる


 
 不信仰の形はいろいろある。

なぜなら、サタンがあらゆる機会をねらって
自分の何らかの性質を押し込もうとしているからである。

生まれつきの心の中には、一生懸命に努力して成功すると、
称揚されたり威張ったりする傾向がある。

しかし自己称揚が神の働きに入る余地は全くない。

あなたがどれほど知性があろうと、どれほど熱意をもって
熱心に働こうと、誇ろうとする自分の傾向を追い払って、
神のみ霊に導かれるために自己を明け渡さない限り、
敗北の地にいるのである。

 魂における霊的な死は、霊的な誇りとゆがんだ経験によって
証明される。

そのような経験を持つ人々は、自分の歩む道をまっすぐに
することがない。

誇りが育てられると、もし受け入れられれば祝福と恵みとなる
頭脳そのものが、汚染されてしまう。

また、もし栄光が神に帰されるなら、命から命に至る香りとなる
勝利そのものが、自己称揚によって濁ってしまう。

これらのことは小さな事、気をつけるほどのこともないように
見えるかもしれないが、このようにしてまき散らされた種は
確実に刈り入れられる。

サタンが彼の仕事に使うのは、あまりにもありふれているので、
ほとんど気に留められることがないような小さな罪に見えるのである。


                           Manuscript 47. 1896年

クリスマス音楽会


高知教会では、12月15日安息日の午後に
「クリスマス音楽会」を開きました。

高知教会の会堂は、天井が高くていい感じに音が響くので
音楽プログラムを開くのに持って来いです。

そこで去年と今年の春、高知で声楽の勉強をされている方々に
会場をお貸しして、「春の小さな音楽」というクラシック歌曲
の発表会を行いました。

その繋がりから、今回は「クリスマス音楽会」を開いて、
その皆さんに歌っていただいたものです。

曲は「もろびとこぞりて」「アメージンググレイス」
「クリスマスメドレー」「ホワイトクリスマス」「星に願いを」
といった馴染みのあるものや、クラシック歌曲(オペラ?)などでした。


さすがに声楽を勉強されている方々なので、上手さと迫力に感動でした。
クラシック風ばかりでなく、ジャズ風にアレンジしてあったり、
男女数名でのアンサンブルがあったり、その変化がまた楽しくて、
一通り終わったあとに何曲もアンコールをお願いした程でした。

音楽会の後、食堂に移って小さなお茶会を開きました。
手作りのお菓子と紅茶で、ちょっとおしゃれな演出をしてみました。

そしてそこで、織田えり子姉がADRAのピーアール。ということで、
クリスマスプログラム第2弾も、まずまずの成功。
(第1弾は「こどもクリスマス大会」)

他所の人たちに会場を提供して何かをしてもらうというのは
(内容の吟味が必要ですが)、教会と地域が交わるのにとても有効です。

教会とは無縁の人たちが教会に来てくれるからです。
この手で行こう!と 私たちは思っています。

引き続いて来週の安息日にも第3弾、地元で頑張っている混声合唱団に
コンサートをお願いしています。

KUMIKO

2007年12月18日火曜日

眼球コントロール力アップ


加齢によって衰えがちな目の周りの筋力、
血管、神経を刺激し、新陳代謝を高めていくには、

★クロージング・オープニング

ギュッと目を閉じて、パッと開くシンプルな動作ですが、
これだけで抜群の効果があるというのです。

開くときは必要以上に開く必要はありません。5~10回。
強度近視の方は無理をせず、6~7割の力で行ってください。

慣れたら、

1 まぶたをギュッと閉じて絞り込む。

2 目を大きく見開いてパッと上を見る。

3 まぶたをギュッと閉じて絞り込む。

4 目を大きく見開いてパッと下を見る。

5 まぶたをギュッと閉じて絞り込む。

6 目を大きく見開いてパッと右を見る。

7 まぶたをギュッと閉じて絞り込む。

8 目を大きく見開いてパッと左を見る。

このようにギュッと閉じてパッと見る動作を上下左右に行います。
これを繰り返すことによって、視点移動がスムーズになります。

また、クロージング・オープニングには、次のような効果もあります。

・ 眼球のマッサージとなり、血流がよくなり、
  目の周りがほかほかと温かくなってきます。

・ まばたきをすることで、ドライアイ予防になります。

・ 眼底を強化し、網膜剥離予防になります。

・ 眼筋のストレッチとなり、目の疲れが取れます。


           -----眼の老化は「脳」で止められた! (中川和宏 著)~-----



パソコンの前にいることが多い方、今から、始めてみませんか・・

12月23日(日)♡クリスマス会

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2007年12月17日月曜日

サーカス


 クリスマスによくお話する、心温まるお話をご紹介します。
有名なお話ですので、どこかで聞いたことがあるかもしれません。
次のような話です。  

 私がまだ十歳の頃です。サーカスの入場券を買うために、
父と私は長い列に並んで順番を持っていました。
ようやく、私たちの前にいるのはあと一家族だけとなりました。

 私はその家族に強く心を引かれました。
とても印象的だったのです。その家族には子どもが8人もいて、
一番年上の子どもでも12歳ぐらいにしか見えません。
あまり裕福そうではなく、着ている服も上等とはいえませんが、
きれいに洗濯されています。

 そして行儀良く手をつないで、両親の後ろにきちんと二列に
並んでいました。期待に胸をはずませた子どもたちは、
ピエロのこと、象のこと、そして今から見る色々な演技のことを
嬉しそうに話していました。

 どうやら、サーカスを見るのはこれが初めてのようです。
子ども達にとって、今日のサーカスは生涯残る素晴らしい思い出
となることでしょう。

 子ども達の前には両親がとても誇らしげに立っていました。
夫の手をしっかりと握った妻は、「あなたは私の騎士」と言わん
ばかりに、夫を見上げています。夫も暖かい微笑みを浮かべて
「ああもちろんさ」と言わんばかりに妻を見つめ返していました。

 売り場の女性が、入場券の枚数を尋ねます。父親は胸を張って
答えます。「子ども8枚と大人2枚下さい。これで家族にサーカス
を見せてやれますよ」入場券の合計金額が告げられました。

 すると、妻は夫の手を離し、黙ってうつむいてしまいました。
夫の唇も震えていました。売り場の窓口に身を乗り出して、
彼はまた聞き返しました。「いくらですって?」

 売り場の女性は、もう一度答えました。その父親には、
それだけのお金が無かったのです。サーカスを見るにはお金が
足りないということを、後ろにいる8人の子ども達には、
どうやって告げようというのでしょう。

 事の成り行きを見ていた私の父は、ズボンのポケットに
手を入れました。そして20ドル札を取り出し、何気なく
落としました。父は腰をかがめてそのお札を拾い上げ、
その男の肩を軽くたたきました。

「失礼ですが、ポケットからこれが落ちましたよ」その男は、
私の父が何をしようとしているのか、すぐに察しました。
彼は人から施しを受けるような人ではありませんでした。

 でも、その時は恥ずかしさと落胆から、途方に暮れていたのでしょう。
その助けを心から感謝して受け取ったのです。20ドル札を差し出す
父の手を両手で固く握り締め、その目をじっと見つめました。

 唇は震え、ほほには涙が伝わり落ちています。
「ありがとう、ありがとうございます。これで助かります。」

 父と私は車に戻ると、そのまま家に帰りました。
その晩、私たちはサーカスを見ることはできませんでした。
でも、それでよかったのです。


                      SDA大阪センター教会牧師 藤田昌孝

2007年12月16日日曜日

持たない暮らし


お部屋も心もすっきりする
「持たない暮らし」(金子由紀子 著)という本を買いました。

その本の、プロローグに書かれていました。
「持たない暮らし」だからといって、
ストイックな生活を想像しないでください。

「持たない暮らし」で持たないモノとは、次の4つだけです。

1 自分の管理能力を超えるモノを持たない。

2 愛着を持てるモノ以外、持たない。

3 自然に還らない、あるいは、次の人に譲れないモノを持たない。

4 自分と、自分の暮らしに似合うモノ以外、持たない。


・・・・なかなか捨てられないモノがあっても、
これから持つものを上の4つに限定することで、
ゆっくりとですが、モノは減っていきます。

一日、あるいは数日でバッサリと暮らしのアカを捨て去る、
まるで外科手術のような手法の「捨てて一掃!」ではなく、
気長な投薬と生活習慣の改善を通して治療する、
内科的な方法が紹介されています。


〝いいなぁ~・・私も読みたい。早速買いに行こう!〟と思いましたか?

『持たない暮らし』・・・・  買わなくても大丈夫!

時々、ここでご紹介していきますね~・・

幼子サムエル



すべての義務を
主のためにするように行うことは、
どんなにいやしい仕事をも魅力あるものにし、
地上の働き人を、
天で神のみこころを行う天使たちと
結合させるのである。

この世で成功を収め、
来世の獲得にも成功することは、
小事を忠実に、
良心的に行うことにかかっている。

完全さは、
神のお造りになったものの中の大きいものと同様に、
小さいものの中にも見られる。

宇宙に諸世界を掛けた手は、
巧みに野の花を造った手であった。

そして、神がその領域で完全であられるように、
われわれも、われわれの領域で完全でなければならない。

均整のとれた強く美しい品性は、
一つ一つの義務を行う行為によって築かれる。


                         希望への光 299

2007年12月15日土曜日

ベルコワイヤーによる音楽礼拝

12月15日(土)大阪センター教会では、
広島三育学院中学・ベルーコワイヤーを
お迎えして「クリスマス音楽礼拝」でした。

曲の間に中学生の「あかし」

礼拝堂(200名席)は満席で、パイプ椅子を並べました。


祈りつつ


心を合わせて


主を賛美します。



豊かに恵まれた「音楽礼拝」でした。

2007年12月14日金曜日

信じること

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聖霊の注ぎ


寒さが凍みる季節です。お元気ですか?
クリスマスの祝福の中で元気にご奉仕して参りましょう。


リバイバルが意味するもの、それは神の霊の豊かな注ぎ。
ひとりまたはたくさんの人々のところに
神の霊が力を伴って注がれると言うことだ。
驚くべく、尋常ではなく聖霊が神の民を包み込むのである。
それはもはや聖霊の静かな働きなどとは呼ぶことはできない。
あのペンテコステのような大いなる経験を現代の教会がするのである。

個人的な回心の時に働く聖霊の働きとは
全く異なった次元の働きがその時には展開される。
教会が二分され、ひっくり返されるような経験である。
聖霊が力をもって働かれているのが明白にわかる。
教会に大いなる清めが起こる。
悔い改めの嘆きの声、祈りの声、賛美の声が教会にあふれる。
今まで考えられなかった人々の回心が見られる。
奇跡もしるしも現れる。
教会に力が回復する。
教会はその歴史の中で何度もそのようなリバイバルを経験してきた。

私たちは、そのようなリバイバルを信じるだろうか。
聖霊の力ある働きを信じるだろうか。
ふたたびのそのようなリバイバルを待ち望むだろうか。

信じて、祈ってそのリバイバルを求めたい。
あふれるばかり豊かな約束の「後の雨」の注ぎを待ち望みたい。

キリストの降誕、聖霊のバプテスマ、そしてキリストの再臨。
今は聖霊の時代です。

明日の安息日、その聖霊の神の臨在の中で、
私たちの主、子なるイエス・キリストをほめたたえ、
父なる神を心から礼拝しましょう。

ハッピー・サバス!!

                         SDA西日本教区長 島田真澄

2007年12月13日木曜日

主にゆだねる


感情をたやすく害してはならない。

わたしたちは自分の気持ちや名声を
守るために生きているのではなく、
人を救うために生きなければならない。

人を救うことに熱心になれば、
相互の間によく起こるわずかな意見の
相違に気を留めなくなる。

他人が自分のことをどんなに思い、
自分に対してどのようにふるまっても、
そのためにキリストと自分との結合、
聖霊との交わりを妨げる必要はない。
                     [Ⅰペテロ2:20を引用]

復讐をしてはならない。
できる限り、あらゆる誤解の原因を取り除き、
悪い外見を避けなさい。

原則を犠牲にしない限り、全力を尽くして人と融和しなさい。
                     [マタイ5:23、24を引用]


                  ミニストリー・オブ・ヒーリング 469,470

2007年12月12日水曜日

性急に行動することの危険


野心や怒り、感情、信仰の欠如、
誤解にもとづく「熱心さ」なども、
私たちを正しい道からそらす要因となります。

こうした危険はだれにでもあるものです。

重要なのは、
私たちを愛し、私たちの最善を願っておられる神の
慈愛と憐れみに対する信仰を養うことです。

しかし、このような信仰は自動的に
生まれるものではありません。

信仰は賜物ですが、
養い、育て、大切に守る必要があります。

2007年12月11日火曜日

人生時計


今の年齢を3で割った答えの数が
一日を人生にたとえたときの、
その人の時刻だというのです。

24才なら「3」で割ると「8」だから朝8時。

36才は、12時。
45才は、15時。

最近では、平均寿命を90才くらいと仮定して、
朝6時を0才、
24時を90才とすると、

10才で  8時
20才で 10時
30才で 12時
60才で 18時  という式もあるそうです。


・・・・いずれにしても、私は今、一日でいえば、
夕食の時間前後、お布団に入るまでの間、
何をしましょうか・・という頃でしょうか。

外は暗くなってきますが、家の中では一仕事
出来そうな時間です。

今日まで、守り導いてくださった神様に感謝しつつ、
もう少し、私に出来ることをさせていただきたい・・と
思っています。

2007年12月10日月曜日

今治教会~〝いつかな!?〟

画像の上でクリックし、大きくしてからご覧下さい。

神の時機に


時機を待つことには、
数々の重要な霊的理由があります。

第1に、待つことは私たちの関心を「物」から
     神ご自身に向けさせてくれます。

第2に、待つことは私たちに自分自身の
     動機や願望を再確認させてくれます。

第3に、待つことは忍耐と霊的持久力を養ってくれます。

第4に、待つことは信仰や信頼といった霊的資質を
     養ってくれます。

第5に、待つことによって神の全体像の一端を
     理解することができます。

第6に、私たちには待つ理由がわかりません。

それゆえ、信仰によって生きることを学びます。

2007年12月9日日曜日

子供クリスマス会・高知教会

9日朝10時より子供クリスマス会を行いました。

近くにある小学校で下校時に子供達にチラシを配ったり
(牧師先生のお嬢さんが通っておいでて、学校の許可を頂いて
 配ることができること感謝!)
信徒の友人のお子さん達やご近所の子供達にも声がけをして
大人と子供を併せて95名も参加した、楽しく元気なクリスマス会と
なりました。
 
今年は教会の子供達が手作りの人形を使って
降誕の人形劇をしたり、信徒の高校生が通う高校から
音楽部の生徒さん達が来て楽しい歌やミュージックベルの
演奏をして下さったり、子供コーラスグループ・SMILEの
クリスマス曲の賛美など、子供達大活躍!でした。

お昼は皆でカレーを頂きお腹いっぱいになったあと
プレゼントをもらって帰ります。
楽しく幸せな時間でした。

アドラの働きを担当の織田姉がお話しし、
「世界には、食べるものがなくて泣いている子供達
 病気になっても病院にも行けない子供達がたくさんいます・・。」
お話しを子供達は静かに聞いていました。

12月は人々の心が自然にイエスさまへ教会へと向かう
素敵な時ですね。