2007年9月10日月曜日
霊と肉との狭間で
新しい命、新しい心、「永遠の命」をいただいても、
依然として、昔の心、罪の心、聖書でいわれている
「肉」が残されています。
その「肉」が「永遠の命」の新しい動機を妨害します。
「肉」が原因で、私たちは、「永遠の命」から生まれた新しい動機や
願いを、自由に実現できないことがあります。
相変わらず、罪を犯すことがあります。
だからといって、「永遠の命」が与えられていないわけではありません。
使徒パウロはそのことについて、次のように表現しています。
「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。
もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、
もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっていると
いう法則に気づきます。『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、
わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、
五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。
わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、
だれがわたしを救ってくれるでしょうか。
わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。
このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では
罪の法則に仕えているのです」(ローマ7:19-25)。
確かに私たちの中には罪の法則が残っています。
しかし善を望んでいることじたい、「永遠の命」が与えられている証拠です。
律法を喜んでいることじたい、「永遠の命」が与えられている証拠です。
私たちのすべきことは、「肉」が残されていることを嘆くよりも、既に
与えられている「永遠の命」をイエス・キリストによって、養い育ててもらう
ことだと思います。
そのために、日ごとの悔い改めは、大変有効です。
日々、自分の罪を探っては、そのためにイエス様が十字架につかれて
その罪を負ってくださったことを確認するとき、「多く赦された者は、多く
愛します」(ルカ7:42、43参照)。
日ごとに、自分の罪のために十字架にかけられたイエス様を仰ぐなら、
私たちは多く赦され、多くイエス様を愛するようになります。多く赦された者は
イエス様が大好きになります。
イエス様のために生きるようになります。イエス様の願いを自分の願いに
するようになります。しかし、だからといって、あえて罪を犯すことは愚かです。
使徒パウロは言います。
「では、どういうことになるのか。 恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべき
だろうか。決してそうではない。 罪に対して死んだわたしたちが、どうして、
なおも罪の中に生きることが できるでしょう。・・・わたしたちは洗礼によって
キリストと共に葬られ、その死に あずかるものとなりました。それは、キリストが
御父の栄光によって死者の中 から復活させられたように、わたしたちも新しい
命に生きるためなのです」 (ローマ6:1、2、4)。
私たちが赦されているのは、罪に留まるためではなくて、新しい命に生きる
ためです。イエス様が私たちの罪を負って、全ての罪を贖ってくださったのは、
私たちが「肉」に生きるためではありません。新しい命に生きるためです。
「それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たさ
れるためでした。肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って
歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と
平和であります」(ローマ8:4、6)。
私たちが新しい命「永遠の命」を大切にして生きる理由、それはイエス様の
十字架の意味と役割を理解するとき、その理由はさらに深まります。
SDA大阪センター教会牧師 藤田昌孝
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失礼いたします
「心の病い・勝利法則」 のご案内です
ご笑覧ください。
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