2008年1月6日日曜日

キリストとの同一性が必要


まことのぶどうの木にある枝は、
ぶどうの木であられるお方とつながることによって、
彼と一つになった信者である。

枝同士が互いにつながり、
ぶどうの木とつながっていることは
彼らを一致させるが、
これはすべてのことにおいて一様であるという意味ではない。

多様性における一致が、被造物全体に行き渡っている原則である。

本来の個性と多様性を保ちながらも、多様性における一致がある。

なぜなら、すべてのものは同じ源からそれぞれの有用性と美を
受けるからである。

・・・・・・

一つ一つは別個の存在である。

にもかかわらず、親株に結びついているならば、どの枝も他の
すべての枝と親睦を深めなければならない。

彼らは皆、同じ源から栄養を摂り、同じ命の水を飲む。

故に、まことのぶどうの木につながっている各枝は、
別個の異なる存在であるが、どれもが親株にあって一つに
結ばれている。

分裂はあり得ない。

彼らは皆、場所と機会が見出せるところではどこでも実を結ぶように、
神のみ旨によって結合しているのである。

しかしこれをするために、働き人は自己を覆い隠さなければならない。

自分自身の思いと意思を表してはならない。
キリストの思いと意思を表すべきである。

・・・・・

クリスチャンの一致は、
枝が同じ親株につながっていることから成り立っている。

その親株は、
それに接木された枝を支え、生命力を与える中心である。

思いと望み、言葉と行為において
キリストにある同一性がなければならない。

つまり彼の霊的生命を絶えず受けるのである。

信仰は働かせることによって増していかねばならない。

神に近く生きるすべての者は、
イエスが彼らにとってどういうお方であるか、
またイエスに とって彼らがどういう者であるかを悟るであろう。

神との交わりが魂に印を刻み、明るくする光として表情に
輝くにつれ、キリストの聖なる品性の確固たる原則が
人類の内に反映されるであろう。

                     Review and Herald 1897年 11月9日

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