2008年8月21日木曜日
信仰生活の一つの節目を体験しました
私には25年の歳月にわたって
抱えている重荷があります。
そして、私にはその辛さを持っていく先がない。
神様のもとにはもっていけるのですが、
教会というシステムの中には持っていく先がない。
常套的なクリスチャン用語で励ましと慰めを与えてくれるとき、
ありがとう、おかげで気持ちが楽になったわと心にもない謝辞を述べて、
その場を信仰的にまるく収めようとしてしまう大嘘つきの私がいます。
しかし、有難いことに書物を通して神様は素晴しい恵みをくださいました。
私の求める慰めや気づきは、時代を越え、国境を越え、
古今東西の信仰者やセラピストや医者や教育者たちから与えられます。
聖書の深みにいざなって、
礼拝説教やセミナーだけでは知ることのできなかった、
神からの深いメッセージを与えてくれます。
ここ一ヶ月間、私は深い嘆きと苦しみのうちにありました。
聖書とともに何冊かの本を読んで過ごしたのですが、
そのうちの一冊がフィリップ・ヤンシーの新刊書
「祈り どんな意味があるのか」でした。
神様は嘆きを肯定的に捉えてくださっておられることを、
聖書を通して証明しており、私にとって大きな慰めとなりました。
嘆きの心を十分に嘆くことをせずに、
大慌てで感謝、讃美、喜び、赦しに移行させてしまうことについては
慎重になることが大切だと気づかされました。
喜び、感謝、讃美、慰め、励まし、悔い改め、
どれもが表面的に流れてしまう可能性があります。
十字架の贖いも観念的にあるいはまた情緒的に
ドラマチックになってしまうのではなく、
魂の奥深くから求め体験できるとき、
はじめて慰めとなり希望となるのです。
信仰的社交辞令が飛び交うことで、世の中のサロンが、
教会という場所に変わっただけの場になってはならないのです。
靴を脱げ、そこは聖なる場所なのだ、と
モーセに語られた主は今も生きておられ、
釘で刺しぬかれた手を差し伸べて、あなたを助けたい、あなたを救いたいと、
血を流しながら、私たちの応答を待っておられるのが、
私の信ずる主イエス・キリストなのです。
私たちは、主の前に靴を脱いでいるでしょうか。
素足になって、水虫、魚の目、偏平足、汗まみれの汚れた足を
主に預けているでしょうか。
私たちは人が大切な自分の心に
土足のままで入ってこられるときとても傷つきます。
靴を脱ぐとは、被造物がその分をわきまえ、
主を聖なる方と認め崇めるということだけではなく、
神様の前に真っ正直になるということもあるのではないでしょうか。
土足のままで主の御前に出るということは、
主を傷つけ悲しませることになるのではないでしょうか。
御堂に一歩足を踏み入れるとき、神様と私との関係を問い直したい。
普段の生活の中で、主を見上げ、心を主に向けるとき、
ありのままの正直な自分であることが、
どれほど自分の信仰にとって大切なことなのか、
そして、それは主がとても喜ばれることであることを
私はフィリップ・ヤンシーから教えてもらいました。
何も解決はしていませんが、
私にやっとキリストにある平安が訪れています。
主の前にいっぱい嘆き、そんな自分を眺めながら、
心のより分け作業ができて、ありのままの自分に出会ったからだと思います。
一羽のすずめ
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