体験的な知識によってキリストを
知っていない自称クリスチャンが多い。
これらの哀れな、欺かれた、
用意のできていない魂のために、
私の心はどれ程痛むことか。
会衆の前に立って、うぬぼれ、
自己を義とする者たちを見、
彼らがキリストに受け入れられる働きに
自らを備えておらず、
平安のうちに主に会う備えをしていないのを知って、
私は眠れない程の重荷を感じる。
彼らの真の姿に気付くよう、
彼らを覚醒させるために私は何ができるだろうと自問する。
自己が彼らの関心事のすべて、
人生のテーマである。
彼らがキリストを仰ぎ、
自我に注目を寄せる事をやめるように、
はっきりとキリストを示すことができればと切望する。・・・
最後の決算の日に苦い失望を味わう者の中には、
外見は宗教的に見え、
クリスチャン生活を送っていたかのように見えた者たちがいる。
しかし、彼らがなすすべての事に自我が織り込まれている。
彼らは自らの道徳、影響、他よりも高い地位、
真理の知識を誇る。
なぜなら、これらをもってキリストの賞賛が得られると
考えるからである。
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「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、
みな天国にはいるのではなく、
ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、
はいるのである」(マタイ7:22、23、21)
Review and Herald 1885 年 12 月 22日
1 件のコメント:
質問ですが、[体験的な知識]とはどのようなものなのでしょうか
頭で考えることではなく心で神様を受け入れ
るということでしょうか?
ご返答よろしくお願いします。
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