憐れみ深い人々は、幸いである、
その人たちは憐れみを受ける。(マタイ5:7)
ここで使われています、「あわれみ深い」という言葉は、
エレーモンというギリシャ語です。
この言葉の意味は、
単に涙もろいとか、かわいそうに思う、
そのような性格を言っているのではありません。
それも含まれますが、もっと強い意味です。
それは「意志」そして「行動」「習慣」を表す言葉です。
「憐れみ深い」とは相手の心を感じ取り、
相手の立場に立って物を見ること。
その人の身になって考え、その人が感じるように感じること。
これを「憐れみ深い」と言います。
相手と一緒に感じ、考え、経験する、
この「憐れみ深さ」を習慣とする者、もしくは志すものは幸せです。
1.間違った親切、助言をしなくなる
多くの人々は、助言や解決策を必ずしも求めているわけではありません。
彼らは共感してくれる人を探しているのです。
一緒に考え、感じ、一緒に悩んでくれる人を探しています。
もし、私たちがもっと、隣の人の話をそのまま聴いて、
その人と共に悩み、考えることができたら、
人生はもっと優しく、そして豊かになれるのかもしれません。
2.人を赦すことが容易になります
人を赦せないく、怒りをためていると、人生は暗く、憂鬱になります。
しかしこれがなかなかままなりません。
どんなに赦そうと思っても、相手の顔がちらつきます。
ふとした拍子に相手の言葉がよみがえってきます。
しかし、「憐れみ深さ」は人を赦すこと、それを容易にしてくれます。
その人が何故、そのようなことを考え、そのように行動するのか?
もし、その人の背景や理由を少しでも理解できれば、
私たちはもっと人をいたわり、ゆるすことができるのです。
3.共感することはそれ自体が喜びである
カウンセリングの父として有名なカール・ロジャースは、
その著書の中で、「共感は喜びです」という内容を書いています。
もし、私たちが想像力を最大限に働かせて、その人の思いを共に思い、
その人の考えを共に考え、その人の悩みや痛みを、
一緒に体験しようと努力するならば、それらがたとえ、痛みや悲しみ、
苦しみの分かち合いであったとしても、そこには感動が生まれる。
充実と喜びさえ、生まれてくる、と書かれていました。
もし、私たちが思いをつくして、心をつくして、
相手の考えを共に考え、その人の悩みや痛み、
苦しみを共に体験しようとするならば、
それは2人にとって素晴らしい経験、喜びの経験とさえなる、というのです。
4.イエス様の憐れみ深さを知る体験
私たちが誰かに「憐れみ深く」あろうとする時、思い知らされます。
自分にはその人に希望を与えることができないということ。
私の心の貧しさ、愛のなさが暴露されます。
そして、私自身が実は傷を負って、
癒しを必要としている魂の一人に過ぎないことを、知らされるのです。
そして、私は、その心の貧しさのゆえに、主、イエス・キリストに目を向けます。
イエス様に助けを求めます。
そして、そこで憐れみ深いイエス様と出会います。
私を憐れんでくださるイエス様、共に悩み、共に感じ、
共にいてくださるイエス様の憐れみ深さを知るのです。
そればかりではありません。
多くの兄弟姉妹から憐れみ深く、祈られ、支えられていることを知るのです。
これが第四の幸いなのだと思います。
ホワイト夫人は、『祝福の山』26-27で次のようにお語りになっています。
「人間の心は本来冷たく、暗く、愛なきものである。
あわれみとゆるしの心があらわされる時はいつでも、
それは人間から出たのでなく、その心に働く神の霊の感化によるのである。
『わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである』
(ヨハネ4:19)。
神はわたしたちの功績にしたがってわたしたちを取り扱われるのではない。
神はわたしたちが神の愛を受ける価値があるかどうかは尋ねられない。
かえって神はわたしたちを価値ある者とするために、
その豊かな愛をそそがれるのである」(『祝福の山』27)。
(SDA大阪センター教会牧師 藤田 昌孝)
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