2011年1月30日日曜日

涙で種まき、喜びの収穫



よい種は、
しばらくの間は、
冷淡で利己的な
世俗を愛する心の中に置かれて、
それが根をおろしている様子を
外部からは見ることができないが、
やがて、
神の霊が魂の上に吹きかけられると、
埋もれていた種から芽がはえてきて、
神の栄光のために、
実を結ぶようになるのである。

わたしたちの一生の仕事の中でも、
どれが実るようになるのかよくわからない。

これであるか、あれであるかがわからない。

しかしこれらは、
わたしたちの決定すべき問題ではない。

わたしたちは、自分の本分を尽くして、
結果を神にゆだねればよいのである。

「朝のうちに種をまけ、夕まで手を休めてはならない。
実るのは、これであるか、あれであるか、
あるいは二つともに良いのであるか、
あなたは知らないからである」(伝11:6)。

「地のある限り、種まきの時も、刈入れの時も、
・・・やむことはないであろう」と
神のお与えになったお約束は語っている(創8:22)。

農夫は、この約束を信じて、土地を耕し、種をまくのである。

わたしたちも、霊的の種まきを、
これと同じようにすべきである。

「このように、わが口から出る言葉も、
むなしくわたしに帰らない。
わたしが喜ぶところのことをなし、
わたしが命じ送った事を果す」(イザヤ55:11)。

「種を携え、涙を流して出て行く者は、
束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう」(詩126:6)。

という神の約束を信じて働かなければならない。


                    キリストの実物教訓 44、45

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