
俳優の渡辺謙さんの次の言葉が載っていました。
勝ち負けの間には、線が引かれます。
健康か病気か、若いか老いているか、
金持っているか無いか、
線を引くと幸せを実感するのかな?
僕の中で今、その線がにじんできています。
〈渡辺謙さんが「『明日の記憶』とつきあう。」の中で〉
勝ったら幸せ、健康なら幸せ、若ければ幸せ、
お金持ちは幸せ、本当にそうなのだろうか?
幸せと不幸せの境界線が「にじんできた」ということでしょうか。
私たちは、何によって、時には幸せを感じ、何によって、
不幸せを感じるのでしょうか。
幸せ、不幸せの境界線とは何なのでしょう。
そもそも、私たちの幸せとは何か?
小林正観氏は、その著書の中で、幸せについて、
「パラダイス」と「ユートピア」の二種類に分けて
次のように説明しておられます。
『「パラダイス」とは外から見て、楽しそう、
幸せそうな条件に囲まれている状態です。
自分の思いや願い、夢や希望が皆手に入って満足している状態です。
ただし、この満足はすぐにさらに強い欲求に代わります。
「パラダイス」の幸せは、「これでよし」ということがありません。
人間の望みや欲望に限度がないからです。
それに対して「ユートピア」の幸せは、外側の条件でなく、
その人の心の中に幸せを感じるメカニズムです。
「ああ、今幸せ」と思った瞬間の心の構造です。』
聖書の幸せも、外側の状況や環境に左右されないという点において、
この「ユートピア」の幸せと似ています。
私たちの幸せを「勝利」という言葉に置き換えるなら、
聖書は「人は、どのようなときにも、勝利できる」と宣言します。
人々から見て、まさに敗北でしかありえない状況下で、
実は勝ち得てあまりがある、と聖書は語るのです。
以下の聖句はその1つです。
私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。
患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、
危険ですか、剣ですか。
「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。
私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。
しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、
これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、
今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、
そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、
私たちを引き離すことはできません。(ローマ8:35~39)。
人はこの世が経験するどのような困難の中にあっても、
圧倒的な勝利をおさめることができるというのです。
何故?その根拠は、キリストの愛です。
神様が命を捨てて、私をお愛しくださっている。
この愛を日々刻々受け止めてゆく。
私の感覚や、気分ではなく、
御言葉の約束に基づいてこの愛を受け止めてゆく。
そのように感じなくても、聖書の言葉に根拠をおいて
神様の愛を受け止めてゆく。これが私たちの勝利の根拠です。
そして、私自身も、神様を愛することを選んでゆく。
神様への愛を告白してゆく。神様の律法を選んでゆく。
我を通して我流で生きるのではなく、聖書の言葉に基づいて
風流(聖霊に導かれて)に生きる。
ここに私たちの幸せの根拠があるようなのです。
SDA大阪センター教会牧師 藤田昌孝
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