2007年10月16日火曜日
どんな時も神を愛する
以前、「エデンの園でアダムとエバが罪を犯す前、彼らは毎日、
神様に対する愛の告白として、「善悪の知識の木の実」を食べ
なかった」というお話を書きました。
アダムとエバにとって、その実を食べないことは簡単なことで
した。永遠の命をいただいていた彼らは、神様のお心に従うこ
とが何よりの喜びだったからです。
そしてそれは彼らにとって神様への愛の告白でした。
私たちも毎日、同様の告白をすることがゆるされています。
「私は神様、造り主なる神様を愛します。イエス様を信じます」と
大胆に宣言することができるのです。
しかし、これは驚くべきことです。サタンの力の吹き荒れるこの
世界で、私たちは力強く、自由にこの宣言することが許されてい
るのです。なぜなら、イエス様が十字架上で、私たちをサタンの
手から解放してくださったからです。
「今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放さ
れる。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のも
とへ引き寄せよう。」(ヨハネ12:31、32)とある通りです。
私たちは力強く、大胆に、この神様への愛の宣言を、自由に
することができます。いつでも、どこでも、どんな時でも!
どんな時でも・・・?私たちは問われています。「私たちははた
してどんな時でも神様を愛することができるか?」。結論は、「で
きる!」です。
「神様を愛する」ことを選びさえすれば、私たちはいかなる時でも、
「神様を愛する」ことを選ぶことができます。どんな時でも!それ
を選ぶ力を、神様からいただいています。
永遠の命の力が、神の子として力が与えられています。
聖霊のお力が私たちの内に宿っています。
「彼(イエス様)を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々
には、彼は神の子となる力を与えたのである」(ヨハネ1:12)。
旧約聖書のヨブという人物がそうでした。
聖書の最も古い書巻といわれているヨブ記には、家族を失い、
健康を失い、財産を失ったヨブが、神様を崇める、という出来事が
書かれています。
ヨブ記は、人は全てを失っても神様を愛することができるか、と
いう問に対する答えです。
ビクトル・フランクルという理学者は、ナチスドイツの強制収容所
に送られ、両親、兄弟、妻を収容所で亡くします。
ある日、彼は小さな独房に拘禁されます。しかし彼はそこで、ナチ
スの兵隊たちが決して奪うことのできない自由を発見します。
それは心の選び。心の自由でした。そのような最悪の状況の中
で、自分は何を選ぶのか?世を呪うのか?それともその中に意味
を見出してゆくのか、という選びでした。
彼は後者を選びました。そして彼の選びが、彼と同じように捕ら
えられていた人々に多大な影響を及ぼしてゆきました。影響を受
けた人々もその中に生きる意味を見出していったのです。
神様は、私たちに選ぶことの力、自由を与えてくださいました。
その自由を用いて、私たちは、神様を愛することができるのです。
どんな時も!!
「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができまし
ょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」
(ローマ8:35)。
「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたち
を愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。
わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、
現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、
低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリス
ト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すこと
はできないのです」 (ローマ8:37~39)。
SDA大阪センター教会牧師 藤田昌孝
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