2007年8月31日金曜日
我々を傷つける者のために祈れ
キリストが光の中におられるように、
光の中を歩こうと努めようではないか。
神がヨブの束縛を解かれたのは、
ヨブが、彼自身のためばかりでなく、
敵対した者たちのために祈ったときであった。
祈ろう。我々自身のためだけでなく、
我々を傷つけ、傷つけ続けている者のために。
祈りなさい。祈りなさい。
特に心の中で神に絶えず祈りなさい。
神はご自身の前に謙虚な者の
心からの熱心な祈りに耳を傾けて下さる(Letter 88. 1906年)。
2007年8月30日木曜日
品性を発達させてくださる
神は、ある人が神のみわざの進展のために
役立つ能力を持っているのを見られて、
そのような人々をためされる。
神は、摂理のうちに、彼らの品性をためす地位に彼らをおいて、
彼ら自身でも気づかなかった欠点や弱点をあらわされる。
神は、彼らがこれらの欠点を直して、
奉仕にふさわしいものになる機会をお与えになる。
神は、彼ら自身の弱さを示して、神に頼ることをお教えになる。
なぜならば、神が彼らの唯一の援助者であり、保護者だからである。
こうして、神の目的は達成される。
彼らには、大目的達成のための教育、訓練、鍛錬、準備などが与えられる。
彼らの力は、そのために与えられたのである。
神が彼らを活動に召されるとき、彼らは準備が整っている。
そして、天使たちは、地上の働きを完結するために力を合わせるのである。
E・G・ホワイト「人類のあけぼの」上128
役立つ能力を持っているのを見られて、
そのような人々をためされる。
神は、摂理のうちに、彼らの品性をためす地位に彼らをおいて、
彼ら自身でも気づかなかった欠点や弱点をあらわされる。
神は、彼らがこれらの欠点を直して、
奉仕にふさわしいものになる機会をお与えになる。
神は、彼ら自身の弱さを示して、神に頼ることをお教えになる。
なぜならば、神が彼らの唯一の援助者であり、保護者だからである。
こうして、神の目的は達成される。
彼らには、大目的達成のための教育、訓練、鍛錬、準備などが与えられる。
彼らの力は、そのために与えられたのである。
神が彼らを活動に召されるとき、彼らは準備が整っている。
そして、天使たちは、地上の働きを完結するために力を合わせるのである。
E・G・ホワイト「人類のあけぼの」上128
2007年8月29日水曜日
2007年8月27日月曜日
利用可能
以前、イエス様の十字架が神様の律法を完成するもの、
神様の ご品性を擁護するものであることをお話しました。
私たち、イエス様の十字架によって救われた者たちは、
その生き方によって、
神様のご品性を証することができます。
私たちの歩みが神様の原則の素晴らしさをご紹介することができるのです。
クリスチャンホームの単純さと豊かさが、世の光とされる時代です。
主と共に生きる原則に立ったクリスチャンの持つ、心の平安(この世が与え
ること のできない神の平安)が世の光とされるのです。
そこで今、クリスチャンに求められているものは、「忠実さ」です。
主と共に歩むこと。
神様の原則を大切にしようとする心のこもった「忠実さ」です。
必ずしもこの世における大きな「成功」が求められているわけではあり
ません。
「何を成し遂げたか」ということよりも、「どのように歩んだか」ということが
問われ ています。結果よりもその道のりが尊重されます。
ある日、イエス様は、シモン・ペテロに言いました。
「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」。
シモンは答えて言います。
「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、
お言葉 ですから、網をおろしてみましょう」。そしてそのとおりにしたところ、
おびただしい 魚 の群れがはいって、網が破れそうになりました。
(ルカ5:4~6)
当時のガリラヤ湖は、魚は夜に取れました。しかも浅瀬のほうがよく取れ
ました。 にもかかわらず、イエス様は日が昇ってから、しかも沖で網をおろ
しなさい、と おっしゃいました。
漁師のシモン・ペテロにとっても、漁にかけては、自分の方がイエス様
より詳しい はずだという自負があります。
ところが、ペテロは言いました。
「しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」
ここに、ペテロの有用性があります。
大和カルバリーチャペルの副牧師、柴田順一牧師がお説教でこの箇所を、
次のように講解されていました。
「Available」(アバイラブル)という言葉がある。
それは「利用可能」という意味だ。
ペテロは「Available」な人材だった。
イエス様に利用されることができた。
自分の舟も、網もイエス様に利用されることができた。
一方、「ability」(アビリティー)という言葉がある。
それには「能力」「才能」「賜物」という意味がある。
イエス様が尊重されるのは、「ability」(才能・能力)よりも、「Available」
(利用可能)の方ではなかろうか。
「ability」才能や能力は確かに大切です。
しかしそれよりも重要なことは、「Available」イエス様に用いられるということ
だ と思います。
たとえ才能や能力がそれほど長けていなくとも、イエス様がご利用してくださ
る なら、 それでよいのです。
主のお働きで実が結ばれるからです。
大切なことは、主に用いられること、「どのように歩んだか」です。
『失楽園』の著者ジョン・ミルトンは挫折を経験した後、次のような心境に達
し たと 言われています。
神は、人の業も、その人の賜物も必要とされない。
神が求めておられるもの、
それは、最善を尽くしてご自身の柔和なくびきを負い、
最善を尽くしてご自分に仕える人である。
(『若い牧師・教会リーダーのための14章』より)。
求められていること、それは忠実さです。
SDA大阪センター教会牧師 藤田昌孝
神様の ご品性を擁護するものであることをお話しました。
私たち、イエス様の十字架によって救われた者たちは、
その生き方によって、
神様のご品性を証することができます。
私たちの歩みが神様の原則の素晴らしさをご紹介することができるのです。
クリスチャンホームの単純さと豊かさが、世の光とされる時代です。
主と共に生きる原則に立ったクリスチャンの持つ、心の平安(この世が与え
ること のできない神の平安)が世の光とされるのです。
そこで今、クリスチャンに求められているものは、「忠実さ」です。
主と共に歩むこと。
神様の原則を大切にしようとする心のこもった「忠実さ」です。
必ずしもこの世における大きな「成功」が求められているわけではあり
ません。
「何を成し遂げたか」ということよりも、「どのように歩んだか」ということが
問われ ています。結果よりもその道のりが尊重されます。
ある日、イエス様は、シモン・ペテロに言いました。
「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」。
シモンは答えて言います。
「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、
お言葉 ですから、網をおろしてみましょう」。そしてそのとおりにしたところ、
おびただしい 魚 の群れがはいって、網が破れそうになりました。
(ルカ5:4~6)
当時のガリラヤ湖は、魚は夜に取れました。しかも浅瀬のほうがよく取れ
ました。 にもかかわらず、イエス様は日が昇ってから、しかも沖で網をおろ
しなさい、と おっしゃいました。
漁師のシモン・ペテロにとっても、漁にかけては、自分の方がイエス様
より詳しい はずだという自負があります。
ところが、ペテロは言いました。
「しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」
ここに、ペテロの有用性があります。
大和カルバリーチャペルの副牧師、柴田順一牧師がお説教でこの箇所を、
次のように講解されていました。
「Available」(アバイラブル)という言葉がある。
それは「利用可能」という意味だ。
ペテロは「Available」な人材だった。
イエス様に利用されることができた。
自分の舟も、網もイエス様に利用されることができた。
一方、「ability」(アビリティー)という言葉がある。
それには「能力」「才能」「賜物」という意味がある。
イエス様が尊重されるのは、「ability」(才能・能力)よりも、「Available」
(利用可能)の方ではなかろうか。
「ability」才能や能力は確かに大切です。
しかしそれよりも重要なことは、「Available」イエス様に用いられるということ
だ と思います。
たとえ才能や能力がそれほど長けていなくとも、イエス様がご利用してくださ
る なら、 それでよいのです。
主のお働きで実が結ばれるからです。
大切なことは、主に用いられること、「どのように歩んだか」です。
『失楽園』の著者ジョン・ミルトンは挫折を経験した後、次のような心境に達
し たと 言われています。
神は、人の業も、その人の賜物も必要とされない。
神が求めておられるもの、
それは、最善を尽くしてご自身の柔和なくびきを負い、
最善を尽くしてご自分に仕える人である。
(『若い牧師・教会リーダーのための14章』より)。
求められていること、それは忠実さです。
SDA大阪センター教会牧師 藤田昌孝
2007年8月26日日曜日
2007年8月25日土曜日
熟知性の法則
アメリカの心理学者ザイオンスが、こんな実験をしています。
大学生に、何枚かの写真を、
それぞれ回数をかえて何度かみせて おきます。
Aの顔写真は1回、Bは2回、以下、Cは5回、Dは10回、
Eは25回という 具合です。
こうして、最後に、まだ見せたことのない顔写真Fをみせ、
AからFの顔写真の うち、どの人物にたいし「どの程度好きか」を
答えてもらうのです。
結果はというと、あらかじめみせた回数が多い写真の人物ほど、
好感度が 高いことが判明。
これは「熟知性の法則」といわれるもので、早い話が、会う機会が
多かったり、 会っている時間が長いほど、その相手のことが好き
になるということなのです。
〝ふ~~ん・・〟〝ふ~ん・・〟
2007年8月24日金曜日
祈り(教区長のメールマガジン~)
少しずつ猛暑も終わりを告げ始めています。
収穫の秋が近づいてきました。
各教会の今年の魂の収穫が豊かに祝福されますよう
お祈りいたします。
今日は、中世の哲学者でもあり神学者でもあった
トマス・アクィナスの祈りの詩をご紹介します。
「私があなたを忘れても」
私の神よ、私があなたを忘れても
あなたは私を忘れないで下さい
私があなたを見捨てても
あなたは私を見捨てないで下さい
私があなたから離れても
あなたは私から離れないで下さい
私が逃げ出しても呼び戻し
反抗しても引き寄せ
倒れても起き上がらせてください
倒れても起き上がらせてください
私の神、主よ、お願いいたします
いかなる虚しい考えによっても
あなたから遠ざかることのない目覚めた心を
いかなる邪まな意向によっても
歪められる事のないまっすぐな心を
いかなる逆境にもめげず
勇敢に立ち向かう強い心を
いかなる卑しい情欲によっても
打ち負かされることのない自由な心を
主よ、私にお授け下さい
主よ、お願いいたします
あなたを求める意志を
あなたを見出す希望を
あなたの望まれる生き方を
信仰を持ってあなたを待ち望む堅忍を
そして、ついにあなたを所有できるとの信頼心を
主よ、この私にお与え下さい
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
あのスコラ学の重鎮にしてこの素直な祈りです。
私たちも素直な願いを祈り続けて行きたいと思います。
明日の安息日、各教会で素直な祈りが祈られますように!
そして確信と平安に包まれますように!
ハッピー・サバス!!
SDA西日本教区長 島田真澄
2007年8月23日木曜日
2007年8月21日火曜日
荒野の学び
イエス様は十字架上で、「『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取
られた」(ヨハネ19:30)ときから、私たちは、サタンの陣営(罪の陣営)から
解放されました。
私たちは今やイエス・キリストの陣営へと招かれています。
それはちょうど、イスラエルの葦の海を渡ってエジプトの奴隷から解放された
こととよく似ています。
エジプトの軍隊はファラオ王と一緒に海の中に完全に沈められてしまいました。
イスラエルの民を追って来る者はもはやいなくなりました。彼らは完全に解放
されたのです。
彼らは奴隷の世界から、神様の民という新しい世界へと移されました。
荒野での学び
ところが、葦の海を渡りきったその場所は荒涼とした荒野。
エジプトでは、それなりに親しんできた慣習や生活様式がそこにはありません。
それなりに守られていた衣食住の保障もそこにはありません。
新しい世界の自由は、同時に、不安と欠乏感を感じさせるものでした。
民たちは事あるごとに、不平不満をモーセに訴え、その不安をあらわにします。
いったい彼らは、荒野の中で「神様に養われること」を学ぶ必要がありました。
新しい世界の中で、神様と共に歩む術を学ぶ必要がありました。
神様と共に生きる心を、今までとは全く違う新しい世界での生き方を学ぶ必要
神様と共に生きる心を、今までとは全く違う新しい世界での生き方を学ぶ必要
がありました。
「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食
べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべて
の言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。
この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった」
(申命記8:3、4)。
ここに書かれています「苦しみ」「飢え」は、荒野での生活を意味しています。
まさに荒野は「危険」と「欠乏」の場所でした。
しかし民はその中で、今まで誰も味わったことのない神様の確かな保護を覚
えるのです。
それはみな、神様のお言葉によって保障された神様のお約束でした。
ある人は、「荒野とは、私たちが『危険』と『約束』に向き合っている場所」と言い
ましたが、まさにそのとおりです。
彼らはこの荒野で、「危険」と「約束」に向き合いながら、「人はパンだけで生きる
のではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きること」を学ぶのです。
イエス様の陣営に招かれた私たちも同じです。
新しい世界の中で、「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出る
すべての言葉によって生きること」を学びます。
パンの必要については、私たちは良く理解できます。
イエス様を知る以前も、その必要は同じだったからです。
しかし、パンだけで人は生きて行きないということに私たちは気づきました。
パンよりも、もっと本質的な必要に気づかされたのです。
霊的な飢え渇きは、新しい世界の到来の特徴です。
そこで私たちは、神様のお言葉によって養われるという新しい経験を迎えるのです。
小山晃佑(こやま・こうすけ)という方がその著書で、「イエス様が与えてくださる
ことは、単なる『ハッピーエンド』ではない。『トラスト・エンド』(信頼にきわまる)だ
と述べておられます。
私たちも人生の危機、荒野の経験をすることがあります。
私たちはその中でパンの必要が満たされるだけでなく、もっと根本的な、霊的な
必要が満たされてゆきます。「人は主の口から出るすべての言葉によって生きる
こと」を学ぶのです。
それは単なる「ハッピーエンド」ではありません。
「トラスト・エンド」、イエス様に対する信頼にきわまることなのだと思います。
SDA大阪センター教会牧師 藤田昌孝
2007年8月20日月曜日
2007年8月19日日曜日
2007年8月18日土曜日
2007年8月17日金曜日
対話(教区長のメールマガジン~)
厳しい残暑が続いています。
健康に留意しつつ明るく元気にご奉仕に励みましょう。
とくに教会の高齢者へのご配慮をよろしくお願いいたします。
昨日、「クリスチャントゥデイ」のHPを見ておりましたら、「SDA」の文字が目に
飛び込んできました。内容は以下の通りです。
「アドベンチスト教会、WEAと神学的対話 共同声明発表へ」
セブンスデー・アドベンチスト教会(SDA)と世界福音同盟(WEA)の神学者ら
が5~10日、米国ミシガン州のアンドリューズ大学で会議を開催し、数ヶ月以内
に、これまでの対話で得られた共通の成果と今後の目標についての共同声明を
発表する見通しとなった。アドベンチスト・ニュース・ネットワークが13日、報じた。
アドベンチスト教会とWEAの間では、すでに昨年8月にチェコ共和国のプラハ
で対話の場が持たれており、会議は今回で2回目となる。
会議を主催したセブンスデー・アドベンチスト教会諸宗教間対話協議会
(Councilon Interfaith Rclations of the Seventh-day Adventist Church)の
ジョン・グラーツ主事は、「先入観を取り去り、我々が伝えるメッセージに対しての
疑問を明確にすることで、アドベンチスト派の人々の認識について福音派の人々
と分かち合うことが出来た」と同会議を評価した。
アドベンチスト教会の代表者らは会議で、聖書は神の言葉であること、三位一
体、人としての肉体を持ったイエス・キリスト、イエス・キリストが行った救いの御
業、信仰による義、祈祷、聖化、キリストの再臨などに焦点をあてるWEAの信仰
告白に同意した。
セブンスデー・アドベンチスト教会は19世紀後半に米国で起こったプロテスタン
トの一派。現在、世界200ヶ国以上で約1500万人の信徒を抱える。古代のキリ
スト教に戻るべきと土曜日の礼拝を支持するため、一部の教会からは異端視さ
れることがあったが、世界プロテスタント連合や世界ルター教会連盟、米国バプ
テスト教会連盟など世界の主要団体からは正統派として認められている。
クリスチャン トゥデイのHPは http://www.christiantoday.co.jp/ から。
世界的に他教派との対話は進んでいるようですね。
「対話」ができるかどうか、すでにそこに協調性の可能性が見えます。
「話にならない」と言われた時点で全ては終わります。
いつでもどこでも誰とでも「対話」のできる開かれた心の人間でありたいものです。
明日の安息日、まずは神さまに心を開き、対話ができますように!
SDA西日本教区長 島田真澄
終戦の夏
62年前の8月15日も今年の夏と同じほど暑い日々でした。
小学校6年生だった私たち40人は、その日も日本が戦いに
勝つと 信じて公園の松の根に傷をつけ、プロペラ機の燃料に
なると信じて松脂を集めていました。
敵艦に突っ込む人間魚雷を目指す二年先輩を校庭で見送って、
まだ何ヶ月もたっていませんでした。
コンクリート製の重いローラーを{勝利の日まで}という歌を大声で
歌いながら引き、航空予科練習兵たちのための飛行場つくりに
精を出しました。
悲しいまでに純粋な気持ちで・・・。
あの日8月15日、見上げる松の梢の果てには、夏空に銀鱗を煌めかせ、
轟音を轟かせてB29の大編隊が飛んで行きました。
何千何万という命が世界中で散りました。
私たちクリスチャンには望めば永遠の命を約束されているけど、
「神様、どうか他者の命のために自分の命を捧げた多くの青年たちに
憐れみをください。力ない私ですが青年伝道のために働かせてください。」
アーメン tn
小学校6年生だった私たち40人は、その日も日本が戦いに
勝つと 信じて公園の松の根に傷をつけ、プロペラ機の燃料に
なると信じて松脂を集めていました。
敵艦に突っ込む人間魚雷を目指す二年先輩を校庭で見送って、
まだ何ヶ月もたっていませんでした。
コンクリート製の重いローラーを{勝利の日まで}という歌を大声で
歌いながら引き、航空予科練習兵たちのための飛行場つくりに
精を出しました。
悲しいまでに純粋な気持ちで・・・。
あの日8月15日、見上げる松の梢の果てには、夏空に銀鱗を煌めかせ、
轟音を轟かせてB29の大編隊が飛んで行きました。
何千何万という命が世界中で散りました。
私たちクリスチャンには望めば永遠の命を約束されているけど、
「神様、どうか他者の命のために自分の命を捧げた多くの青年たちに
憐れみをください。力ない私ですが青年伝道のために働かせてください。」
アーメン tn
2007年8月15日水曜日
脱出ゲーム[RGB]
2007年8月14日火曜日
2007年8月13日月曜日
わたしたちの教会では
富山教会では8月6日(月)に第6回茶話会「優しく楽しくティータイム」
教会員のパンブデックノアさん宅で開催。
教会員のパンブデックノアさん宅で開催。
音楽と言葉のハーモニー(表題・一羽のすずめ)を
求道者(8名)と教会員(8名)が中野牧師を中心に楽しい交わりを
持つことが出来、とても感謝のひとときでした。
メニュー
歌・アメージンググレイス(寺沢和美姉・ギター条谷兄)
お話・一羽のすずめ(中野牧師)
自己紹介1
クラリネット・モーツアルトのクラリネット五重奏より第2楽章から
(村沢兼二兄)
歌・一羽のすずめ(寺沢和美姉・条谷兄)
自己紹介2
歌いましょう、覚えましょう(賛美歌312番、ほか)
飛び入り参加の中田姉と息子さん
::::: ::::: :::::
美味しいパンとお茶をいただきながらの茶話会でぐっと親密さが増しました。
次回は日曜日にとの声もありましたので10月は日曜日に。
律法の回復
<神様の心>
「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された」
(創世記1:27)。
人は神様に似せて造られました。
神様を愛し、人を愛することが自由にできるよう、神様のご品性を表す者、
愛の律法を豊かに証する者でした。
神様はまさにお父様。人は神様に良く似た子。
現代的に言うならば、お父様の遺伝子をいただいた神様の子どもでした。
神様の遺伝子を子に与えるために、
神様は特別な方法で、人をお造りになりました。
「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、
その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」
(創世記2:7)。
「息」とは「霊」のことです。
人は神様の「霊」を吹き込まれて、「生きた者」となりました。
人が「生きる」ということは、他の動物のように生きるのではありません。
「神様の霊に生かされる」「神様にかたどった心に生きる」ということです。
<失われた神様の心>
ところが、人は罪を犯した「その時」この「生きた者」が死んでしまいました。
「死んだ者」となった人間は、
神様を愛すること、互いに愛し合うことが困難になります。
神様と交わることが、おっくうになります。
人を愛するよりも自分を愛するようになります。
小人閑居為不善。人は暇になったり、一人でいたりすると、
ろくなことをしないのです。
<再び与えられる神様の心>
「サタンは、人間のうちにある神のみかたちをいやしいものにすることに
成功したと狂喜していた。
その時イエスが、人間のうちに創造主のみかたちに回復するために
おいでになったのである。
罪のために堕落した品性を新しく形づくることができるのは
キリストよりほかにいない」(『各時代の希望』上28頁)。
イエス様はもう一度人間のうちに神様のみかたちを回復するために
地上にお越しになりました。
イエス様はもう一度、神様にかたどった心をお与えくださいます。
「『それらの日の後、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである』と、
主は言われる。『すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心に
それを書きつけよう。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる』
(ヘブライ8:10)。
イエス様はおっしゃいました。
「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を
信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。
はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞くときが来る。
今やその時である。その声を聞いた者は生きる」(ヨハネ5:24、25)。
「永遠の命」とは「神様の心」ともいうことができます。
「神様の心」を得た人は、「死んだ者」から、再び「生きた者」へとされました。
さらにイエス様はおっしゃいます。
「『乾いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。
わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から
生きた水が川となって流れ出るようになる。』
イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について
言われたのである」(ヨハネ7:37-39)。
イエス様はもう一度私たちに「霊」を与えてくださいました。
「神様の心」を与えてくださったのです。
そのとき私たちは「死んだ者」から「生きた者」へ生まれ変わったのです。
「この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを
通して実現したのです。神は、あたしたちの救い主イエス・キリストを通して、
この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。
こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、
希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです」(テトス3:5-7)。
SDA大阪センター教会牧師 藤田昌孝
2007年8月11日土曜日
2007年8月10日金曜日
チャック・スミス(教区長のメールマガジン~)
猛暑お見舞い申し上げます。
今日は、米国南カリフォルニア、カルバリーチャペル・コスタメサの
チャック・ スミス牧師を紹介したいと思います。
彼の教会は、あの1970年代のジーザス・ ムーブメントの中心となった
教会であり、新しい賛美プレイズ・ソングを発信した 教会でもあります。
この教会をとおして、数え切れない人々が救われ、また全米、 全世界に
数多くの新しい教会が建てられています。
彼は牧会の中で、ひとつの葛藤を持っていました。
それは、教会の人々が、なか なか変えられていないことでした。
彼が属していた教団の中では、教会の目的は伝道することであると
教えられていました。
そこで彼は、毎週日曜日に、伝道メッセ ージをしていました。
けれども、来る人たちはいつも同じで、だれも未信者を連れて来ていません。
やがて彼は、彼らが霊的に成長しなかったのは、
自分のせいであることを知りま した。
エペソ書4章を見ると、牧師の働きの目的は、伝道することではなく
キリス トのからだを建て上げることであることが書かれています。
「…ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。
それは、聖徒たちを 整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げる
ためであり、ついに、私 たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する
知識の一致とに達し、完全におとなに なって、キリストの満ち満ちた身たけに
まで達するためです。(エペソ4:12-13)」
チャックは、み言葉によって羊たちを養うことが、
自分に対する神の召命である ことを知るようになりました。
チャックの説教スタイルは、しだいに、
主題/伝道 説教から、聖書講解に変えられてきました。
聖書のある書物を一節ずつ学び始めま したが、ついに、
創世記から黙示録までを順番に学ぶようになっていきました。
そ の間に、会衆も霊的に満たされ、変えられ、多くの人々を教会に連れて来て、
救われる人、洗礼者が与えられました。
聖書全体を学ぶことを通して、
彼は、聖書が、「人が神のためにしなければいけな いこと」よりも、
「神が人のためにしてくださったこと」を強調していることを知りま した。
例えばエペソ書は1章から3章まで、神が私たちのためにしてくださったこ とが
書かれており、それから4章以上に、「その召しにふさわしく歩みなさい。」と
なっています。
今まで、伝道しなければならない、奉仕をしなければならない、と
教えていましたが、そうではなく、伝道は信者たちが養われた結果もたらされる
副産物であることを知りました。
彼は、17年間奉仕していた、その教団から出ました。
そして、「カルバリーチャ ペル」という教会からの招聘を受け入れました。
そして、教会に来る人は増え続け、
礼拝の場所を何回か移転しなければなりませんでした。
そしてついに、怒涛のごと く人々が押し寄せるようになりました。
それは、ヒッピーという、アメリカ対抗文 化の中で生きていた若者が、
教会をおとずれるようになったからです。
既存の保守 的な大人たちは、そこで愛することと、寛容であること、
受け入れることを学びま した。
そして教会は、スーツ姿の人もいれば、Tシャツで裸足姿の人もいるという、
いろいろな人たちが集う場となりました。
いろいろな人たちが集う場となりました。
また、そこに集っていた若者たちが、牧 師として召され、新しい場所で
教会を始めるようになりました。
教会を始めるようになりました。
チャックは、17年間の主からの訓練から、
自分たちで人々を引き寄せようとす るプログラムや手法を使うのではなく、
主の御霊の働きに自分たちが導かれること を学んだのです。
「『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と
万軍の主は仰せられる(ゼカリヤ4:6)」。
チャックは今も、ほとんど休むことなく、日曜の朝と晩の聖書の学び、
平日の聖 書の学びを、この教会の中で行なっています。
多くの人が彼の牧会や指導を観察し て、
「仕えることによるリーダーシップ」を学んでいます。
例えば、教会の駐車場に ごみが落ちているのを見ると、人に頼むのではなく、
自分自身で拾っています。
そこで周りの人々は、彼が主に仕えているのを見て、
自分もどのように主に仕えなけれ ばいけないのかを学ぶのです。
だれからも強制されてではなく、
進んで主に対して行なう奉仕こそが、主に喜ばれると考えています。
また、私たちがお仕えする唯一 の動機は、「キリストの愛がわたしたちを駆り立
てているからです。(コリント第二 5:14新共同訳)」とあるとおり、
キリストの愛なのです。
(2001年小牧者出版「幸いな人」9月号の特集記事より編集)
明日の安息日が、養いの安息日、ひとりひとりが主の霊に導かれる安息日と
なりますように!
ハッピー・サバス!!
SDA西日本教区長 島田真澄
2007年8月9日木曜日
西日本教区・牧師夫人会
8月5、6日(日・月)に行われた
西日本教区・牧師夫人会で決まりました。
《西日本教区・牧師夫人会》
会 長 山路めぐみ(豊橋教会牧師夫人)
中部・北陸地区 森 みどり(名古屋教会牧師夫人)
関西地区 金光烈(神戸教会牧師夫人)
中国・四国地区 脇屋裕子(岡山教会牧師夫人)
九州地区 平田理恵(久留米教会牧師夫人)
2007年8月8日水曜日
2007年8月7日火曜日
2007年8月6日月曜日
おかんメニューの本を作ります
10月6日(土)、今治教会では四国地区女性の集いです。
今回は、身近なことから考えようと、
「講壇から台所のあいだで・・・もっと愛嬌(愛敬)のある女性に」
という会を企画しました。
午前中は、あかしと賛美で神様をお礼拝し、午後は「おかんメニュー」を
囲みながら楽しい時間をすごしたいと思っています。
私たちは「講壇と台所のあいだで」神様の前に愛敬のある女性として
歩んでいるのでしょうか?
私の身近な家族を、隣人を神様の前にお連れすることができるでしょうか?
祈りつつ、少しずつ行動に移して行きたいのです。
そこで「おかんメニュー」を募集して、私たちの一番身近なところから、
はじめてみようと考えました。
「おかんメニュー」レシピで、私たちの身近な家族や隣人、お友達のお腹を
「神様の愛」でしびれさせましょう!おー!おー!
♡卵乳菜食ごはんメニューの簡単な作り方と写真を募集中!♡
*おかんメニューのレシピ
*おかんメニューの簡単なエピソード
*ご本人のお写真 (写真はプリントでもメールでもOK!)
*お料理のお写真 【締切日:8月31日】
郵送 〒794-0823 愛媛県今治市郷本町1-2-29
SDA今治キリスト教会
SDA今治キリスト教会
メール < harita0315@yahoo.co.jp> 張田佐喜夫
携帯メール <september_bluemoon_yh@docomo.ne.jp > 張田裕子
詳しくは、今治教会(TEL 0898-22-5973)にお問い合わせください。
*10月6日(土)参加者に、この「おかんメニューレシピの本」をプレゼント!
「永遠の命」の証拠
イエス様から「聖霊」を豊かにいただき、「永遠の命」を与えられると、
その人にはいったい、どのような変化が起こるでしょう?
エレン・G・ホワイトは、『信仰と行い』の中で、次のように語っています。
「愛の心がわきあがります。感情の高揚はないかもしれませんが、
変わることのない平安に満ちた信頼があります。
キリストのくびきは負いやすいので、すべての荷は軽くなります。
義務は楽しみとなり、犠牲は喜びとなります。
闇におおわれていると思えた道が、
義の太陽からの光に照らされて明るくなります。
これが、キリストが光におられるように、
光の中に歩くということなのです」 (『信仰と行い』43頁)。
「永遠の命」をいただくと、
心に新しい思想、新しい感情、動機が芽生えてきます。
ある人にとって、それは大きな変化として、
強い衝撃を持って現れるかもしれません。
またある人にとって、それは見逃してしまいそうな
小さな変化かもしれません。
しかし、それがたとえ小さな変化であっても、それは
イエス様が与えてくださった新しく命「永遠の命」の始まりなのです。
「神様ともっと深く、親密な関係を持ちたい」
という願いが生まれてきます。
「もっと人を愛したい、神様をもっと愛したい」。
「与えたい」。「奉仕をしたい」。
「この世の安心ではなく、神様からいただく心の平安をいただきたい」。
「和解したい」。「赦したい」。「安息日を守りたい」。
「献金をお献げしたい」。「聖書を読みたい」。
「もっと深くお祈りしたい」。
新しい動機、願いが生まれてきます。
あれほど大切であったものが、
二番目に大切なものへと変えられているかもしれません。
今まで、義務として嫌々ながら果さなければならない、と
思っていたものが、願望、憧れ、喜びと変えられてゆきます。
愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制、
神様の律法 (ガラテヤ5:22、23)
に対する憧れが生まれてきます。
「永遠の命」について、大切なことがいつくかあります。
一つは、この新しい命「永遠の命」に気づくということです。
大きな変化であろうと、小さな変化だろうと、
新しい命の始まりに気がつくことが大切です。
もう一つ、「永遠の命」は日ごとに受けるということです。
日ごとに、イエス様から「聖霊」を受けて、
日ごとに「永遠の命」をいただくことです。
「わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます」
(IIコリント4:16)。
1日の中で、イエス様から「永遠の命」をいただく時間が必要です。
毎日この新しい命をいただいて、
「永遠の命」に成長してゆきたいと思います。
3つ目、それは、「肉」の存在です。
新しい命、新しい心、「永遠の命」をいただいても、依然として、
昔の心、古い心、聖書でいわれている「肉」が残されています。
その「肉」が「永遠の命」の新しい動機を妨害します。
私たちの中に残されている「肉」が原因で、私たちは、
「永遠の命」によって生まれてきた新しい動機、
新しい願いを、自由に実現できないことがあります。
相変わらず、罪を犯すことがあります。
だからといって、「永遠の命」が与えられていないと思ってはなりません。
パウロはそれを
「心では神の律法に仕え、肉では罪の法則に仕えている」(ローマ7:25)
と表現しています。
SDA大阪センター教会牧師 藤田 昌孝
その人にはいったい、どのような変化が起こるでしょう?
エレン・G・ホワイトは、『信仰と行い』の中で、次のように語っています。
「愛の心がわきあがります。感情の高揚はないかもしれませんが、
変わることのない平安に満ちた信頼があります。
キリストのくびきは負いやすいので、すべての荷は軽くなります。
義務は楽しみとなり、犠牲は喜びとなります。
闇におおわれていると思えた道が、
義の太陽からの光に照らされて明るくなります。
これが、キリストが光におられるように、
光の中に歩くということなのです」 (『信仰と行い』43頁)。
「永遠の命」をいただくと、
心に新しい思想、新しい感情、動機が芽生えてきます。
ある人にとって、それは大きな変化として、
強い衝撃を持って現れるかもしれません。
またある人にとって、それは見逃してしまいそうな
小さな変化かもしれません。
しかし、それがたとえ小さな変化であっても、それは
イエス様が与えてくださった新しく命「永遠の命」の始まりなのです。
「神様ともっと深く、親密な関係を持ちたい」
という願いが生まれてきます。
「もっと人を愛したい、神様をもっと愛したい」。
「与えたい」。「奉仕をしたい」。
「この世の安心ではなく、神様からいただく心の平安をいただきたい」。
「和解したい」。「赦したい」。「安息日を守りたい」。
「献金をお献げしたい」。「聖書を読みたい」。
「もっと深くお祈りしたい」。
新しい動機、願いが生まれてきます。
あれほど大切であったものが、
二番目に大切なものへと変えられているかもしれません。
今まで、義務として嫌々ながら果さなければならない、と
思っていたものが、願望、憧れ、喜びと変えられてゆきます。
愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制、
神様の律法 (ガラテヤ5:22、23)
に対する憧れが生まれてきます。
「永遠の命」について、大切なことがいつくかあります。
一つは、この新しい命「永遠の命」に気づくということです。
大きな変化であろうと、小さな変化だろうと、
新しい命の始まりに気がつくことが大切です。
もう一つ、「永遠の命」は日ごとに受けるということです。
日ごとに、イエス様から「聖霊」を受けて、
日ごとに「永遠の命」をいただくことです。
「わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます」
(IIコリント4:16)。
1日の中で、イエス様から「永遠の命」をいただく時間が必要です。
毎日この新しい命をいただいて、
「永遠の命」に成長してゆきたいと思います。
3つ目、それは、「肉」の存在です。
新しい命、新しい心、「永遠の命」をいただいても、依然として、
昔の心、古い心、聖書でいわれている「肉」が残されています。
その「肉」が「永遠の命」の新しい動機を妨害します。
私たちの中に残されている「肉」が原因で、私たちは、
「永遠の命」によって生まれてきた新しい動機、
新しい願いを、自由に実現できないことがあります。
相変わらず、罪を犯すことがあります。
だからといって、「永遠の命」が与えられていないと思ってはなりません。
パウロはそれを
「心では神の律法に仕え、肉では罪の法則に仕えている」(ローマ7:25)
と表現しています。
SDA大阪センター教会牧師 藤田 昌孝
2007年8月5日日曜日
みんな違ってみんな佳い
Don’t compare yourself with other people
We are all different
We are not the same
Be content of your self
Be content of what you have
お別れの日、最後の授業
整然とした暖かい字が黒板に並んでいく・・
「大切な言葉です。心にしっかりインプットしてください」
私たち3人のクラスメートを前に、誠実を絵に描いたような
主にある白髪のオペ先生は
一人ひとりの目を見つめながら
私たちに伝えたいお別れの言葉を贈ってくださった
ビギナークラスの私たち
難しい言葉は分からないけど、これなら分かります先生
私たちは何度か声に出して書かれている言葉を読んだ
先生又富士山に登れると良いですね・・・
古里のボルネオの話又聞きたい
ありがとう先生 tn
2007年8月4日土曜日
家庭
2007年8月3日金曜日
忠実 (教区長のメールマガジン~)
また台風がやってきました・・・各教会の無事を祈ります。
牧師人生、あるいはクリスチャン人生の成功の基準は、
その人生の最後にどのような業績を残したか・・・ではありません。
それは、彼の人生がいついかなる時にも、
彼の主イエス・キリストに「忠実」であったか否かです。
キリストは、「忠実な僕」を待っておられます。
「キリストの実物教訓」の中に次のような言葉があります。
「クリスチャンとして、わたしたちがするようにと召された働きは、
キリストと協力して、魂の救いのために働くことである。
わたしたちは、すでに、この仕事をすることを主と契約している。
この働きを怠ることは、キリストに対して、不忠であることを表す。
しかし、この働きを完成するためには、
忠実に良心的に小事をなさったイエスの模範に従わなければならない。
あらゆるクリスチャン活動とその感化が
良い結果をもたらす秘訣は、 ここにある。」 (334p)
大切なのは、キリストのように「忠実に良心的に小事をなす」こと。
マザー・テレサの言葉を思い出します。
「わたしたちは 大きなことはできません。
ただ、小さなことを大きな愛でするだけです。」
「大切なのは、私たちがどれだけの行動をするのではなく、
それをするのに、どれだけ愛を注いでいるかです。
大切なのは、私たちがどれだけ与えるのではなく、
それを与えることに、どれだけ愛を注いでいるかです。」
明日の安息日、教会でのすべのご奉仕を、
忠実に良心的にそして愛を込めてさせていただきましょう。
祝福に満ちた安息日となりますように!
ハッピー・サバス!!
SDA西日本教区長 島田真澄
時間を取る
「静まって、わたしこそ神であることを知れ。
わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」
詩篇46:10(口語訳)。
「本物のキリスト教とは、一連の教義を学んでから、
同じ道を歩む人々と足並み揃えて進むことではありません。
恵まれない人々への単なる人道的支援でもありません。
本物のキリスト教とは、神様と共に歩むことです。
それゆえ、クリスチャン生活の真髄は、
神様の声に耳を傾けることを身につけ、
神様がおっしゃることを実行する勇気を育むことです。
・・・
あなたがいかなる方法でうまくやろうとも、
本物のキリスト教の決め手となる要素は時間です。
本物のキリスト教の決め手となる要素は時間です。
それも余った時間や使い捨ての時間でなく、上質な時間です。
塾考し、瞑想し、反省するための時間、
せかせかしない、邪魔されない時間です」。
上記の言葉は、ビル・ハイベルズという牧師の著書
『祈れないほど忙しい』(福音社)からの引用です。
彼は、続けて、神様との時間を取る必要を語るため、
結婚生活についても書いています。
「本物の結婚生活にも、同様の時間が必要です。
多くの結婚生活には中身がありません。
夫は・・・仕事に夢中です。妻は子どもたちに夢中で、
さらに仕事を抱えているかもしれません。
それゆに夫と妻は、倉庫の前で、玄関ですれ違います。
・・・彼らの中には深い親密さはありません。
同じ家に住んではいるものの、互いに育み合っていないのです。
生き生きとした、活気のある、本物の夫婦関係にないのです。
・・・・が、さらに上を求める夫婦もわずかながらいるのです。
簡単でないことを自覚しつつも、
彼らは本物の結婚生活を手に入れるために戦う決心をします。
彼らは時間がかかることも、
つまり、これまで自分にとって大切だった活動を
やめなければならないかもしれないことも知っています」。
私はよく、「コミュニケーション貯金」のお話をします。
人と人との間にコミュニケーションが十分であれば、
「コミュニケーションの貯金」は黒字です。
信頼関係ができていますので、お互いの話が良くわかり、
相互の言い分が正しければ、たやすく受け入れることができます。
しかし、相互のコミュニケーションが不足しているか、
もしくは何らかの形で互いの信頼関係に傷がついていれば、
「コミュニケーションの貯金」は赤字です。
なかなか相手の話すことを理解することも受け入れることもできません。
神様は私たちに対していつも誠実で、裏切られることはありません。
しかもいつも、私たちの心の扉をノックしておられます。
しかし、私たちのほうで、
神様とのコミュニケーションの時間をとらないでいると、
神様との「コミュニケーションの貯金」が赤字になるや、
神様のお言葉をそのまま受け取ることができなくなることがあります。
神様のお約束に安心して任せられなくなったり、
神様の方法より、自分のやり方を優先させたりして失敗したりします。
「コミュニケーションの貯金」を黒字にするには、
お互いの会話を増やさなければなりません。
コミュニケーションの時間を増やすしか方法はありません。
・・・かと言っても、貯金が赤字のときは、
コミュニケーションをとること自体が、しんどかったり、
違和感を覚えることがあります。
「聖書を読むのがしんどい、読んでもピンとこない、
お祈りしても1分で終わる・・」なんてことがあるかもしれません。
しかし続けていくうちに、
貯金が黒字になった瞬間、世界は開けてきます。
お祈りすることが大好きになります。
「なるほど!!」聖書の言葉が良くわかってきます。
「なるほど!!」聖書の言葉が良くわかってきます。
「この言葉は私のためだ!!」私の心に響いてくることがあります。
わたしたちの祈りは、
夜中にパンを求める友人のように(ルカ11:1-13)
熱心に忍耐強く求め続けなければならない。
熱心に不屈の精神をもって祈れば祈るほど、
キリストとわたしたちの霊的結合は親密になる。
信仰が増すにつれて、受ける恵みも増すのである」
『キリストの実物教訓』125頁。
SDA大阪センター教会牧師 藤田 昌孝
2007年8月2日木曜日
2007年8月1日水曜日
9月1日 中国地区・女性の集い in 米子
23秒で体の中を駆けめぐるもの
登録:
投稿 (Atom)