キリストを告白したい者は、
自分のうちにキリストに住んでいただかねばならない。
彼は、
自分が受けていないものを伝えることはできない。
弟子たちは、教理について雄弁に語ることも、
キリストご自身のみことばをくりかえすことも
できたかもしれなかった。
しかし、
もしキリストのような柔和と愛をもっていなかったら、
彼らは、キリストを告白していることにならなかった。
告白はどうであろうと、
キリストの精神に反する精神は、
キリストをこばんでいるのである。
人は、悪口やおろかなおしゃべりや、
不真実なことばや不親切なことばなどによって、
キリストをこばむかもしれない。
人はまた生活の重荷を避けたり、
罪の快楽を追い求めたりすることによって、
キリストをこばむかもしれない。
彼らは世に従ったり、
無作法な行為をしたり、
自分自身の意見に執着したり、
自分自身を義としたり、
疑いをいだいたり、
とり越し苦労をしたり、
暗黒のうちに住んだりすることなどによって、
キリストをこばむかもしれない。
すべてのこうしたやり方によって、
彼らはキリストが自分のうちにおられないことを
宣言するのである。
そこでキリストは、
「人の前でわたしを拒む者を、
わたしも天にいますわたしの父の前で拒むであろう」
と言われる。
(マタイ10:33) (各時代の希望 中91、92)
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