2012年1月30日月曜日

聖なる神と人間の罪深さ




ヨブは、
つむじ風の中から
主の声を聞いたときに、
「それでわたしは
みずから恨み、
ちり灰の中で悔います」
と叫んだ(ヨブ42:6)。

イザヤは、
「主の栄光を見、
ケルビムが「聖なるかな、聖なるかな、
聖なるかな、万軍の主」と
呼ばわるのを聞いて、
「わざわいなるかな、
わたしは滅びるばかりだ」と叫んだ(イザヤ6:3、5)。

パウロは、
第三の天にまで引き上げられ、
人間には語ることのできない言葉を聞いた後、
自分のことを、
「聖徒たちのうちでもっとも小さい者である」と
言っている(Ⅱコリント12:2-4参照:エペソ3:8)。

また、
かつてはイエスの胸によりかかった愛弟子ヨハネは、
主の栄光に接したとき、
その足下に倒れて死人のようになった(黙示録1:17参照)。

カルバリーの十字架の影を歩くものには、
自分を高めたり、
自分はもはや罪を犯さないなどと
誇ったりすることはあり得ない。

彼らは、自分たちの罪が、
神のみ子の心臓を破裂させるほどの苦悩を
引き起こしたことを感じる。

そしてこの思いが、彼らをへりくだらせる。

イエスに最も近く生活する者が、
人間の弱さと罪深さを最もはっきりと認める。

そして自分たちの唯一の希望を、
十字架につけられ復活された救い主の功績に置くのである。


(各時代の大争闘 下 199、200p)

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