2011年2月28日月曜日
神は富を託される
神は、
また人びとに財産をおゆだねになる。
神は、
富を得る力を人びとにお与えになる。
神は天からの露と降り注ぐ雨によって
地をうるおされる。
また太陽を照らして、植物をはえさせ、
繁茂させ、実を結ばせておられる。
そして、神は、神のものを
神に返すように人びとにお求めになる。
金銭は私たちが、
自分に栄えを帰するために与えられたものではない。
私たちは、忠実な管理者として、
神に栄光を帰するために、金銭を用いなければならない。
自分たちの財産の一部分だけが、
神のものであると、思っている人がある。
宗教的、慈善的目的のために一部分をささげれば、
あとは、自分のもので自由に使用しても良いと、
彼らは考える。
しかし、これはまちがいである。
わたしたちの所有するものはみな神のものであって、
その用途について、責任を負わなければならない。
一銭の金を使うにも、神を第一に愛し、
自分のように隣人を愛しているかどうかがあらわれるものである。
キリストの実物教訓 327
2011年2月27日日曜日
失望してはならない
世にはキリストのゆるしの愛を知り、
ほんとうに神の子になりたいと
望んでいながら、
自分の性格が不完全で、
生活にはあやまちが多いために、
いったい自分の心が
聖霊によって新たにされたかどうかと
疑う人があります。
こうした場合に決して失望、落胆してはなりません。
私どもは幾たびとなく、欠点やあやまちを悔いて、
イエスの足もとに泣き伏すことでしょう。
けれども、そのために失望してはなりません。
たとえ敵に敗れても、神に捨てられ、拒まれたのではありません。
いいえ、キリストは神の右に座して私どものために
執り成しをしていたまいます。
使徒ヨハネは
「わたしの子たちよ。これらのことを書きおくるのは、
あなたがたが罪を犯さないようになるためである。
もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、
わたしたちのために助け主、すなわち、
義なるイエス・キリストがおられる」(Ⅰヨハネ2:1)と
申しました。
また「父ご自身があなたがたを愛しておいでになるからである」
(ヨハネ16:27)というキリストのみ言葉も忘れてはなりません。
神は、あなたをおのれに立ち帰らせ、
御自らの純潔と聖潔とをあなたのうちに反映しようと
望んでおいでになります。
ただ神に従いさえすれば
すでにあなたのうちによきことをはじめたもうた神は、
イエス・キリストの日までその働きを続けてくださるのであります。
ですから、もっと熱心に祈り、もっと深く信じましょう。
自分の力に信頼できなくなったとき、
あがない主の力を信じ、私どもを助けてくださる主を賛美しましょう。
イエスに近づけば近づくほど、ますます欠点が多く見えてきます。
それは自分の目が開けて明らかになり、
イエスの完全さに比べて、
自分の不完全さが大きくはっきりと見えるからです。
これは悪魔の惑わしの力が失われ、
人を生かす神のみたまの力が働いている証拠であります。
キリストへの道 84-86
2011年2月26日土曜日
2011年2月24日木曜日
プラスの要素を掴みとる
つまずくことも、
転ぶことも、
だまされることも、
裏切られることも、
決してそれ自身嬉しいことではないし、
自ら望むべきことではありません。
しかしながら、
どうしようもなく、
それらが〝来る〟時、
そういうマイナス要素からさえ、
プラスの要素を掴みとることが人間にはできるのです。
*愛することは許されること
2011年2月23日水曜日
ペテロの質問、並みの労働者と同じ
「ついては、何がいただけるでしょうか」
というペテロの質問は、
そのまま改めないでおくならば
弟子たちをキリストの使者とするのに
ふさわしくない精神、すなわち、
雇い人根性をあらわしていた。
イエスの愛にひきつけられていたとはいっても、
弟子たちは、
まだパリサイ主義から完全に解放されていなかった。
彼らは、まだ、働きに相当して報いを受ける
という考えのもとに働いていた。
彼らは、
自己高揚と自己満足の精神をいだいて、
お互いに比較し合っていた。
だれかが、何かの失敗でもすると、
他の者は、優越感にひたっていた。
キリストの実物教訓 375
2011年2月22日火曜日
両者を見分ける
世の中には
変えられないものがあります。
変えられるものもあります。
変えられないものは、
受け容れる心の静けさ serenity がたいせつです。
変えられるものは変える勇気 courage が大事で、
その両者を見分ける、
discern という言葉を使いますけれども、
英知が必要です。
*人間としてどう生きるか
2011年2月21日月曜日
バラムの貪欲という一つの罪
心に抱いている罪は習慣となる。
それが繰り返されて
やがてそれは尊いすべての能力を
支配する力を発揮する。
バラムは不義の報酬を愛した。
神が偶像礼拝と見なされる貪欲の罪に抵抗して、
それを克服しなかった。
サタンは、
この一つの欠点を通して彼を全く支配し、
それが彼の品性を堕落させ、
日和見主義者(権力者に迎合する)にした。
彼は神を私の主であると言っていたが、
しかし、神に仕えず、神の働きをしなかった。
Signs og the Times 1880年 11月 18日
2011年2月20日日曜日
2011年2月19日土曜日
2011年2月18日金曜日
2011年2月17日木曜日
弟子たちの性格は皆異なっていた
イエスが弟子たちを
ご自分の奉仕に召されたとき、
彼らは全部
ひどい欠点を持っていた。
柔和で心のへりくだったお方と
最も親密に交わったヨハネでさえ、
生まれつき柔和で従順な人間ではなかった。
彼とその兄弟は、「雷の子」と呼ばれた。
彼らがイエスといっしょにいた時に、
イエスに対してだれかが軽蔑でも示そうものなら、
彼らは憤慨してけんか腰になるのだった。
短気、復讐心、批判の精神といったものがすべて
この愛された弟子のうちにあった。
彼は高慢で、
神の国では第一位の者になりたいという野心をもっていた。
しかし一日一日、
自分自身の激しい気性と対照的に、
彼は、イエスの柔和と寛容とを見、
謙遜と忍耐についてイエスの教訓を聞いた。
彼は天来の感化に向かって心を開き、
救い主のみことばをきく者となるばかりでなく、
これを行う者となった。
自我はキリストのうちにかくれた。
彼はキリストのくびきを負い、
キリストの重荷を負うことを学んだ。
イエスは弟子たちをしかり、彼らに警告し、また注意された。
しかしヨハネとその兄弟たちは、イエスから離れなかった。
彼らは、しかられたにもかかわらず、イエスをえらんだ。
救い主は、
彼らに欠点とまちがいがあるからといって、
彼らから離れるようなことをなさらなかった。
彼らは、
終わりまでイエスと試練を共にし、イエスの生活から教訓を学んだ。
キリストを見ることによって、彼らの品性が一変した。
各時代の希望 上 381. 382
2011年2月16日水曜日
人間の分際をわきまえる
生命科学の発達は、
そのこと自体
喜ぶべきことなのかも知れないが、
人間が〝神の領域〟と考えられていた
部分を侵し始めた時、
失ってならないのは、
人間の分際をわきまえる謙虚さであろう。
「たまもの」としての
生命への尊厳と畏敬の念である。
*愛をこめて生きる
2011年2月15日火曜日
祈りの時を忘れないために
2011/2/12 「教区長室便り」に
「777」プロジェクト参加のお誘いがありました。
「週に7回、午前7時か午後7時にリバイバルと
改革を求めて共に祈りあいましょう」というものです。
私は、午前も午後も祈ることにして、
忘れないためにアラームをセットしました。
・・・・・・・
〝なかなか良い!〟です。
「その時」に合わせて、
ちょっと生活習慣が変わりました。
「後の雨を祈り求める!」・・・・〝あの人も今、祈っている〟
離れていても、主にある家族!を感じます。
なかなか良い!です。
良い実が証明
堕落した人は、
心を新たにすることによって
造りかえられることができる。
それは彼が、
「何が神の御旨であるか。
何が善であって、
神に喜ばれ、
かつ全きことであるかを、
わきまえ知る」ようになるためである。
彼はどのようにしてこれをわきまえ知るのだろうか。
彼の思い、霊、心、そして品性を
聖霊が所有することによってである。
それはどのように立証されるのだろうか。
「わたしたちは、全世界に、天使にも人々にも
見せ物にされたのだ」。
人間の品性の上に、
聖霊の働きが現実になされ、その実が見られるのである。
良い木が良い実を結ぶのと全く同じ様に、
主の園に実際に植えられた木は、
永遠の命に至る良い実を結ぶのである。
悩まされていた罪に勝利し、
悪い思想は思いの中に入るのを許されなくなる。
悪い習慣は魂の宮から追い払われる。
悪い方向へ偏っていた傾向は正しい方向に向きを変える。
間違った気質や感情は変えられて、
行為の新しい原則が与えられ、
そこには品性の新しい標準が生じるようになる。
今や、聖なる気性と清められた情緒という実が
クリスチャンの木に実るようになる。
全的改革が起こったのである。
これがなさるべき働きである。
我々は、自分自身の力では決断も目的も
役に立たないことを経験によって知っている。
では、我々は断固とした努力をあきらめるべきだろうか。
そうではない。
我々の経験は、この働きはとうてい
自分ではできないことを証明してはいるが、
我々のためにそれをする力があるお方に
助けていただけるのである。
しかし、神の助けを保証できる唯一の道は、
自分自身を神のみ手に完全にゆだね、
我々のために働いて下さる神に信頼することである。
我々が信仰によって神につかまっていれば、
彼がその働きをなさるのである。
信じる者はただ信頼することしかできない。
神が働かれる時、
我々は神に信頼し、そのみ心を行いながら働くことができる。
Manuscript 1a. 1890年
2011年2月14日月曜日
各自自分の光を輝かす
神が天に置かれた
きらめく星は皆、
神の命令に従い、
それぞれに異なった量の光を
輝かして夜空を美しくしている。
だから回心した魂は皆、
自分に定められた光を輝かそう。
そしてその光が輝き出ると、
輝きは増してますます明るくなるであろう。
あなたの光を照らしなさい・・・
天から反射したあなたの光線を注ぎだしなさい。
ああ、シオンの娘よ、
「起きよ、光を放て、あなたの光が臨み、
主の栄光があなたの上にのぼったから」
Letter 38. 1890年
2011年2月12日土曜日
2011年2月10日木曜日
旧型パソコンを有効活用
新しくパソコンを
買い換えたとき、
まだ動くパソコンを
処分してしまうのは
もったいない・・と思うなら、
こういう活用方法もありますね。
「Web閲覧を制限して子ども専用のパソコンにする」
「Yahoo!あんしんねっと」
http://anshin.yahoo.co.jp/
↑ 無料のフィルタリングソフトです。
子どもに閲覧させたくないWebサイトを制限できます。
子ども用のIDでログインすれば、不適切なWebサイトを遮断できます。
子どもの年齢に合わせてメールの送受信や掲示板、
ブログの書き込みなども制限できます。
他にも、マイクロソフトの同じようなソフト
「Windows Liveファミリーセーフティ2011」
などもありますが・・・・
2011年2月9日水曜日
2011年2月8日火曜日
信仰のない行いは
信仰のない行いは死んだものであり、
行いのない信仰も死んだものです。
行いが私たちを救うことは決してありません。
私たちに代わってそれを可能とするのは
キリストの功績です。
私たちのキリストへの信仰を通して、
キリストは私たちの不完全な努力を
神に受け入れられるものとしてくださいます。
私たちが持つように求められている信仰は、
何もしない信仰ではありません。
救いに至る信仰とは、愛によって働き、
魂を清める信仰です。
憤りや疑いなしに、
神に向かって清められた手を上げる者は、
神の戒めの道を聡明に歩むでしょう。
信仰と行い 37
2011年2月7日月曜日
慎ましい天幕職人によって
アポロは・・・
ギリシャの最高の教養を受けており、
学者であり弁舌家であった。
・・・アクラとプリスキラは
彼の言うことを聞いていて、
その教えには不足のあることが分かった。
彼には、
キリストの使命、その復活と昇天、
キリストがいない間、
ご自分の民と共に残すためにお送りになった慰め主である
み霊の働きについて十分な知識がなかった。
そこで彼らはアポロを呼びにやった。
教育のあるその弁舌家は非常に驚き、
喜んで彼らから教えを受けた。
彼らの教えを通して、
彼は聖書についての明瞭な理解を得、
キリスト教会の最も有能な擁護者となった。
このようにして徹底的な学者かつ優れた弁舌家は、
天幕職人という
慎ましい仕事をしていたクリスチャン男女の教えから、
主の道についてより完全に学んだのであった。
Life of Paul 119
2011年2月6日日曜日
2011年2月5日土曜日
2011年2月3日木曜日
世に対するしるし
キリストを信じる信仰による義認は、
品性の改革に表されるであろう。
これが、
我々が告白する教義の真実さを、
世に示すしるしである。
我々が生きた教会であるという日々の証拠は、
我々が御言葉を実行しているという事実の中に見られる。
生きた証は矛盾のないクリスチャンの行為となって世に出て行く。
Letter 83. 1896年
2011年2月2日水曜日
見ることによって変えられる
我々は
見ることによって変えられる。
天から与えられた型の
完全さを瞑想する時、
その純潔のみかたちに
合わせて完全に改変され、
新たにされたいという望みを
持つようになる。
崇敬するお方のように
なりたいという魂の飢えと
渇きが生じるであろう。
我々がキリストのことを考えれば考えるほど、
彼のことをもっと他の人に話すようになり、
世に彼を表すことであろう。
Review and Herald 1888年 6月 12日
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