イエスのみ手の中で、
完全な休みを得なさい。
主の大きな愛を
よく考えなさい。
我々が彼を信じるために、
その自己否定や
払われた無限の犠牲を瞑想するなら、
聖なる喜び、
穏やかな平安、
そして言いあらわしようもない愛で心が満たされるであろう。
イエスのことを話し、祈りの中でその名を呼ぶとき、
彼は我々の個人的な慈しみ深い救い主であるという確信が強くなり、
彼のご品性がもっと美しく見えてくることであろう。
・・・我々は愛の豊かなふるまいを楽しみ、
自分たちは養子縁組によって彼のものとなったと完全に信じるとき、
天を前もって味わうことができる。
信仰をもって主を待ち望め。
主は祈る魂を引き上げて、その尊い愛を感じさせて下さる。
我々は彼の近くにいて、
彼とのすばらしい交わりを保つことができる。
我々は彼の優しさとあわれみをはっきりと見、
我々に与えられる愛を思い、
心は砕かれて溶けてしまうのである。
我々は、確かに魂の中にキリストが宿っていることを感じる。
我々は彼につながっており、イエスと共にいてくつろぐ。
約束が心に流れ込んでくる。
我々の平安は川のようで、心には栄光の波が次々とうねり、
我々はイエスと、彼は我々と、本当に共に食するのである。
我々は神の愛を実感し、その愛のうちに安らぐ。
それを言い表せる言葉はない。
それは知識を越えている。
我々はイエスと一つであり、
我々の命はキリストと共に神のうちに隠されている。
我々の命であるイエスが現れるとき、
我々もまた栄光のうちに彼と共に現れるという保証がある。
強い確信を持って、
我々は神を父と呼ぶことができるのである。
Letter 52. 1894年