2009年2月27日金曜日
2009年2月26日木曜日
削除不能ファイルを削除
ハードディスクに
保存されているファイルを
削除したいのに、
どうやっても削除できないことが
あります。
原因は
いくつかありますが、
「ファイルの削除エラー」
といったメッセージが出る場合は、
ファイルが破損しているためです。
下の手順でそのファイルと同名のファイルを作成して
上書きすれば、削除できるようになります。
「スタート」
↓
「アクセサリー」
↓
「メモ帳」
↓
中身は何でもいいので同名ファイルを作成する。
↓
「ファイル」
↓
「名前を付けて保存」
↓
「保存する場所」で消したいファイルがあるフォルダを選択。
ダイアログが開いたら、ファイルの種類で「すべてのファイル」を選択する。
↓
ファイル一覧から、消したいファイルを選択したら
「保存」ボタンをクリック。
↓
「上書きしますか?」と聞いてくるので「OK」をクリックする。
・・・このとき、
拡張子も削除したいファイルと全く同じにして上書きすること。
2009年2月25日水曜日
世に対する渇きはない
2009年2月24日火曜日
ワード文書にパスワード
2009年2月23日月曜日
聖霊は人間の抵抗に逆らっては働かない
人間の心に働く聖霊の感化は、
聖なる秩序に従ってそれを働くのである。
しかし、
聖霊は抵抗する人間に
逆らうような方法や力では働かれない。
人は、
神の勧告や忠告を聞くのを拒否することがあるかもしれない。
彼は自分の行動を自分自身の手の中で統制することを
選ぶかもしれない。
しかしこれをするとき、
彼は栄誉ある器にはなれない。
モアブのように、彼は変えられ、
器から器に汲み移されることを拒否しているので、
その臭気は彼の内に残るのである。
主は彼の働き、特権、好機、
およびなされるべき進歩を明白に指摘されたが、
彼は自分の品性の欠点を直すことを拒否している。
古い習慣をうち破って考えや方法を変えるのは大変なことである。
「その香気も変わることがない」。
彼は自分の欠点に執着しているので、
聖なる奉仕の働きにはふさわしくない。
彼は厳しい自己吟味をしたり、
はっきりと分かりやすい方法で自分の上に光が輝くように
求めることを喜ばなかった。
彼の祈りは謙遜のうちに神のもとに上っていかなかった。
そして、自分の祈りを理解して義務を果たす努力をしなかった。
伝道の働きへの召しを確信させるために、
主はその人を試みられる。
その後、もし彼が自分の道と意志に従うことに満足し、
神のみ霊の顕示に注意を払わないならば、
また、もし恵みと深い理解によって成長することを拒むならば、
主は彼を必要としておられないことは確かである。
というのは、自分が受けていないものを
伝えることは決してできないからである。
Letter 10. 1897年
2009年2月22日日曜日
イザ!という時のために
〝壊れた!助けて!困った・・〟
都道府県から駆けつけ可能なお店を即検索できる
「駆けつけ館.com」 http://kaketsuke-can.com/
「予約館」 http://yoyaku-can.com/
「出前館」 http://demae-can.com/
チェックしておくと、〝何か!〟のときに便利かも・・・(?)
2009年2月20日金曜日
2009年2月19日木曜日
健やかであるべき体と心
2009年2月18日水曜日
画像ファイルを縮小表示
2009年2月17日火曜日
天の便宜が約束される
2009年2月16日月曜日
2009年2月15日日曜日
2009年2月13日金曜日
2009年2月12日木曜日
同情に満ちた友
[ルカ18:1-8]
「どうぞ、わたしを訴える者をさばいて、
わたしを守ってください」というやもめの祈りは、
神の子らの祈りを代表している。・・・
彼らは、罪を犯しはしたが、
キリストが彼らの罪の重荷を
ご自分の魂の上に背負ってくださった。
そしてイエスは人類を、
火の中から燃えさしのように取り出された。
イエスは、ご自分の人性によって人と結合され、
また、ご自分の神性によって、
無限の神と一つに結ばれておられる。
助けが、滅びようとする魂にさしのべられた。
敵は責められたのである。・・・
もし、わたしたちが、神のご用のために
自分をささげているならば、
神は、なんの備えもなさらないようなところへ、
わたしたちをおかれることはない。
わたしたちがどのような境遇にあっても、
導き手であられる主がわたしたちをお導きくださる。
どんな問題であっても主は確実な相談相手である。
また、どんな悲しみ、死別のなげき寂しさの中にあっても、
同情にあふれた友なるイエスがわたしたちとともにおられる。
キリストの実物教訓 147,150,154
2009年2月11日水曜日
2009年2月10日火曜日
愛と共に働く
2009年2月9日月曜日
ささやきテスト
マタイ25:14~30には、
イエス様がお話になったタラントのたとえ話がのっています。
主人からそれぞれ5タラントと2タラントと1タラントを預けられた人がいて、
5タラント約3億円と2タラント約1億円預けられた人は、
結果、王様と一緒にタラントを2倍に増やしたことを喜びます。
しかし1タラント約6000万円預けられた人は何もせずに土にうめ、
王様にしかられます。
暗闇に追い出されました。
共に喜んだ5タラントと2タラントの人と、
暗闇に追い出された1タラントの人との最大の違いは
何なんだったのでしょう?
その大きな違いは、主人に対する理解の違いでした。
前者は主人と喜びを共にする関係でした。
ですから主人からあずかったタラントを少しでも用いて、
お役に立ちたい、といてもたってもいられなかったのでしょう。
しかし、後者の人は主人を残酷で理不尽な人と理解していました。
ですから、うかつにタラントを用いることができなかったのです。
私たちが、主の御言葉に従おうとするとき、そこには、
神様との仲むつましい喜びの関係があることを
認識しておかなければなりません。
そこには私と神様との、大変親しい関係が成立しています。
神様が私に向かって喜んで、このようにおっしゃってくださる関係です。
「あなたは私の愛する子、私はあなたを喜ぶ」という関係です。
そのことをもっと広く、深く理解してゆくならば、私たちは喜んで、
主の御言葉に従い、主は豊かな実りを実現してくださるのだと思います。
以下のお話は、「ウィスパーテスト」(ささやきテスト)といって、
以前大和カルバリーチャペルの柴田順一牧師が
お説教でお話されていたものです。
それは一人の女の子の話で展開されます。
その女の子には生まれつき障害がありました。
そしてその女の子自身がこのように言っているんです。
私は 生まれた時から他の子と違うということを知っていました。
学校にかようようになってからは、
さらに自分が他の子達と姿形がちがうということを感じました。
あなたの唇はどうしたの?聞かれるとき、
いつもガラスで切っちゃったの?と答えました。
私の心の中では、事故でこうなったと言ったほうが、
生まれつきこういう姿だったと言うより、
みんなに理解してもらえると思ったからです。
私のことは誰も愛してくれないと思っていました。
2年生の時、
みんなに好かれていたレナード先生が私の担任になりました。
先生は少し太っていて、いつもニコニコしていて、幸せそうな、
輝いている女の先生で、私の先生になりました。
ある日、耳の聴力テストをすることになり、
レナード先生はクラスのみんなにこのテストを受けさせました。
みんながそのテストを受けてゆき、私の番になりました。
ドアの横に立って、片方の耳をふさいで、
離れたところに先生が立って、私に質問をするのです。
静かにささやいて、それが聞こえたかどうかテストするのです。
先生は、空は青いですか、とか、
あなたの靴は新しいのと質問をするんです。
そしてそれが聞こえたら、生徒はそれに返事をするのです。
レナード先生の言葉はだいたい決まっていたのですが、
その時、先生が思いもよらなかった言葉を言うのを聴きました。
先生はわたしを見てこういったのです。
あなたが私の子どもだったらよかったのに。
私は聞こえたけれど、答えることができませんでした。
なぜなら私は泣いていたからです。
あなたが私の子どもだったらよかったのにと先生が言ってくれた。
私が泣いているから聞こえていたということが分かったようです。
その日私にとって、もっとも大きなテストに合格しました。
それは私が先生の子どもに選ばれるというテストだったのです。
私たちは神様から選ばれました。神様によって造られました。
神様のために造られました。神様は私たちを喜んでくださいます。
神様は私たちを通して御業を実現しようとされています。
私はあなたを捨てて孤児とはしない。
あなたは私の愛する子、私はあなたを喜ぶ。
私たちの耳にこの声は聞こえているでしょうか?
(by 藤田 昌孝)
2009年2月6日金曜日
2009年2月4日水曜日
2009年2月3日火曜日
信じて栄えなさい
2009年2月2日月曜日
正すための天来の助け
[エレミヤ31:10-12を引用]
穀物と酒は恵みと豊かさの象徴である。
主は世との妥協と神の戒めへの
不服従の習慣を清めて一掃するために
メッセージを送られる。
これらのメッセージを受け入れて、
罪を悔い改め、改革し、
神の助けを求めてその戒めに服従する道を歩むすべての者は、
その悪い行いを正すために天来の助けを受けるであろう。
しかし、
表面的に悔い改めて主を求めながら、
悪い行為を捨てない者は失望するだけでなく、
象徴やたとえをもって彼らの前にその行為が示されたとき、
彼らは主を失望させたために恥と悲しみを味わうであろう。
彼らは自分の行為に期待と信頼をおいている。
彼らは民として譴責されたが、
譴責された悪い行いを捨ててはいない。
Manuscript 65. 1912年
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