2012年8月30日木曜日
祈りが答えられたことを喜びなさい
信仰をもって祈りなさい。
そして祈り求める祝福を得るために、
自分の生活を祈りと調和するように努めましょう。
信仰が弱まることのないように、
注意しましょう。
私たちが受ける祝福は、
私たちの信仰の強さとその実践に比例するからです。
「あなたがたの信じているとおりになるように」
「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」
(マタイ9:29、21:22)とあります。
祈り、信じ、喜びなさい。
祈りが答えられたならば、
神に心からの讃美の歌をささげなさい。
神をその言葉通りに信じなさい。
「約束してくださったのは真実な方なのですから」
(ヘブライ10:23)
心からの真剣な祈りは決して失われることはありません。
神への水路の扉は開いています。
恵みの水はあふれるほどに流れています。
その流れにはいやしの力が伴い、
救いと命、
健康を豊かに与えてくださいます。
(『教会への証」』第七巻274p)
祈り164p
2012年8月29日水曜日
許すということは
許すということは易しいことではない。
しかし、
許すことによって、
私たちは相手の支配から自由になり、
自立をかち得るのだ。
かけがえのない自分の時間を、
他人の支配に任せていては、
もったいない。
時間の使い方は生命の使い方なのだから。
*目に見えないけれど大切なもの
2012年8月28日火曜日
言葉は多くのことを表す
声や舌は
神の賜物であり、
もし正しく用いられれば、
神のための力となる。
言葉は非常に多くの
ことを表す。
それは神への愛、
献身、賛美、旋律を
表現するかも知れないし、
あるいは憎しみや報復を
表現するかも知れない。
言葉は、心の意向を表す。
それは
命から命に至る香りであるかもしれないし、
あるいは死から死に至る香りであるかもしれない。
舌は祝福の世界でもあり、
あるいは悪の世界でもある。
Manuscript 40. 1896年
2012年8月27日月曜日
厳しい裁判官が有罪
自らの罪に関する言い訳や
正当化をいつでもしたがる者たちが、
他人を裁き非難することにおいて、
しばしば最も厳格になる。
今日、サウルのように、
神の不興を自分自身にもたらす人が多い。
彼らは勧告を拒み、叱責をさげすむ。
主が彼らと共にいないことを確信したときでさえも、
彼らはねたみの原因を・・・
自分自身の内に見るのを拒む。
心と生活において、
本当は彼らにまさっている他の人たちを残酷に裁き、
厳しく譴責することにふける一方で、
高慢で誇り高い精神を追い求める者が、
どれ程多いことか。
このように、自ら裁判官をかって出た人は、
キリストの言葉を考えるがよい。
「あなたがたのさばくそのさばきで、
自分にもさばかれ、
あなたがたの量るそのはかりで、
自分にも量り与えられるであろう」
Signs of the Times 1882年 8月 17日
2012年8月26日日曜日
2012年8月25日土曜日
2012年8月23日木曜日
2012年8月22日水曜日
2012年8月21日火曜日
親切という律法に生きなさい
主イエスは我々の唯一の助け手である。
彼の恵みによって、
我々は愛を培うこと、
親切にまた優しく語るために自分を教育することを学ぶ。
彼の恵みによって、
我々の冷たく粗野な作法が変貌する。
親切という律法が我々の唇に宿るようになるであろう。
すると、
聖霊の尊い感化のもとにある人々は、
泣く者と共に泣き、
喜ぶ者と共に喜ぶことが弱い証拠だとは思わなくなる。
我々は、
すべての人に善意を持つべきこと、
他人の生活における陰でなく
日光であろうとする真摯な望みを持つべきこと、
それがどんな意味を持つのかを学ばねばならない。
兄弟たちよ、
砕けた悔いた心を持とう。
舌を汚す言葉ではなく、
愛と同情の表現が唇から流れ出るようにしよう。
愛が心に作り出せる暖かさを他の人々が感じるようにしよう。
そして、
ずっと存在してきた利己主義や冷淡さや頑固さという悪を、
キリストの弟子と名乗る人たちが正すように教育しよう。
これらの特徴はみな、
キリストが心に宿っておられないという証拠である。
[コロサイ3:12、13を引用]
Review and Herald 1894年 1月 2日
2012年8月20日月曜日
主を賛美せよ
「息のあるすべてのものに主をほめたたえさせよ」。
我々がどれほどのことに感謝すべきであるか、
誰か十分に考えてみた人がいるだろうか。
主のあわれみは朝ごとに新しく、
そのまことは尽きることがないということを
我々は覚えているだろうか。
我々は神に依存していることを認めて、
そのすべての恩恵に感謝を表しているだろうか。
それどころか、
我々は、
「あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る」
ということをあまりにもよく忘れるのである。
Testimonies, vol. 5 315
2012年8月19日日曜日
2012年8月18日土曜日
2012年8月16日木曜日
悪い作物を生じる種
激情に
かられた言葉は、
誰も
集めようとはしない
悪い作物を
生じる種を
まくのである。
我々の品性は、
自分の言葉の
影響を受けるが、
我々の言葉は
他人の品性に
さらに強い影響を及ぼす。
無限の神だけが、
不注意な言葉によってなされる
害悪を測ることがおできになる。
これらの言葉が
我々の唇から出るとき、
恐らく誰かを傷つけようなどとは
思わないのだが、
それは内心の考えを表すもので、
悪の側に立って働くのである。
家族の輪の中で、
無思慮で不親切な言葉を話すことにより、
何という不幸が生じてきたことだろうか。
粗暴な言葉は心に苦痛を与え、
何年もの間、
その痛みが消えることがないかも知れない。
クリスチャンと公言する者として、
我々は、
信者であれ不信者であれ、
交際する人々に自分の言葉が与える影響と
いうものをよく考えなければならない。
我々の言葉は注目されており、
無思慮な言い方によって害悪が生じるのである。
無思慮で愚かな言葉の好ましくない影響は、
その後の信者または不信者との交際において
全く無効にすることはできない。
我々の言葉は、
魂をどんな食物で養っているかを
証明するものである。
Youth's Instructor 1895年 6月27日
2012年8月15日水曜日
神は活発で熱心な努力を要求しておられる
あなたの努力に
最高の他力を
注ぎなさい。
最も強い動機を
助けとして
求めなさい。
あなたは
学んでいる。
あなたが手がけたことは
すべて徹底的にするように
努めなさい。
あなたが従事している事柄につき
有能となることを目標にしなさい。
義務や勉学において、
表面的で無関心という習慣に
陥ってはならない。
そういう習慣は強くなり、
よりよいことは何もできなくなってしまうからである。
人の心は、
生まれつき苦労と努力をほとんど要しないことで満足し、
何か安価で下等なものに甘んじようとする。
・・・・・・・・・・・・・・
もしあなたが今以上の知識を得たら、
自分はほんのわずかのことしか知らなかったということが
納得できるであろう。
神はあなたに、
精力的で熱心な知的努力を要求しておられる。
決然とした努力をする度に力は増していく。
そうすればあなたのすることはすべて
気持の良いものとなるであろう。
自分は前進しているということが分かるからである。
あなたは、
緩慢で不確かで決断力のないやり方に慣れることもできる。
だがそれだけあなたの生涯の仕事は、
本来の半分もできないことになろう。
それとも神をしっかりと見つめて、
祈りによって魂を強くするなら、
みっともないのろさや仕事を嫌うことに打ち勝つことができる。
そして、敏速に考え、
また適切な時に精一杯努力をするように
精神を訓練することができる。
もし報酬のために働くというのが最高の動機であれば、
どんな地位にあっても、
あなたは決して高い責任を担う資格は与えられず、
決して教えるのにふさわしい者となることはない。
Manuscript 24. 1887年
2012年8月14日火曜日
クリスチャンの生活は他の人々のために道を照らす
イエスの愛で満たされた魂は、
言動に礼儀正しさ、容貌、希望、勇気、
また落ち着きを添える。
キリストの精神を表わし、
人々に愛を吹き込み、
それが反映されるようになる。
よりよい生活への希望に目覚めさせる。
気絶しそうな魂が力づけられる。
誘惑にあって葛藤している人々は強くされ慰められる。
その言葉、その表情、その作法が
太陽の明るい光線を投げかけ、
すべての光の源である天国に向かう
はっきりとした道を、
その後に残す。
我々には皆、
他の人々を助ける機会がある。
我々は絶えず、
何らかの印象を若者たちに与えている。
顔の表情はそれ自体、
内面生活の鏡である。
イエスは、
我々が彼ご自身のようになり、
優しい同情で満たされ、
人生の小さな義務において
愛の奉仕を懸命に努めることを望まれる。
Manuscript 24. 1887年
2012年8月13日月曜日
我々の魂は天の賜物に飢えるべき
我々は、
信仰を持って神の前に行き、
神は我々のため、
また我々が救おうとしている人たちのために
働いて下さることを信じて、
嘆願しなければならない。
熱心な祈りのためにもっと時間を
ささげなければならない。
幼な子のように信頼する信仰を持って、
天の父の前に行き、
すべての必要を申し上げるべきである。
神はいつでもゆるし、
助ける用意をしておられる。
天の知恵は無尽蔵なので、
主は十分に引き出すよう奨励なさる。
霊的な祝福を得たいという我々の願望は、
次の言葉で述べられている。
「神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、
わが魂もあなたを慕いあえぐ。」
天が与えてくれるはずの豊かな賜物を、
もっと深い渇きをもって求める必要がある。
我々は義に飢え渇かねばならない。
ああ、
我々が経験的な知識によって神を知ろうとし、
信仰の手を伸ばし、
救ってくださる力あるお方に無力な魂をゆだねて、
至高者の謁見室に行こうという熱烈な願望を持つように!
神のいつくしみは命にまさる
Manuscript 38.1905年
2012年8月12日日曜日
祈りは信仰の確信を強める
信仰の確信は、
毎日、
み言葉を読み、
へりくだった真剣な祈りをささげることによって
強められる必要があります。
私たちにはそれぞれ個性がありますし、
確信は各自それぞれが
堅固に持つべきではありますが、
その確信は神の真理として、
神が与える力によって
持たせていただかなければなりません。
もしそうでないならば、
確信はいつしか私たちの内から
消失してしまうでしょう。
(『教会への証』 第六巻401p)
祈り 150p
2012年8月11日土曜日
2012年8月9日木曜日
信仰の祈りに答えて神は力を与えられる
人がもし、
エリヤのように、
心を神にささげ、
彼が持っていたような信仰を持つならば、
神は、
その当時エリヤの上になさってくださったように、
わたしたちにも御自身の力を現してくださいます。
人がもしヤコブのように、
真剣に神に懇願し、
求めるならば、
神は、
その当時ヤコブが得た結果と同じ結果を
わたしたちに得させてくださいます。
神は信仰の祈りに答え、
力を現してくださるのです。
(『福音宣伝者』255p)
祈り 92-93p
2012年8月8日水曜日
サタン的品性の卑しむべき特徴
ねたみは、
サタンの品性の
最も卑しむべき特徴の一つである。
それはいつも、
他人を中傷しては
自己を高めようとしている。
ねたみ深い人は、
自分を高めようと思って、
隣人をけなす。
賞賛されることに慣れている人は、
自分にそうされると嬉しがるが、
他の人に向けられた賞賛を憎む。
ああ、品性のこの悪しき特徴が、
どれほど多くの害悪をこの世に
及ぼしてきたことだろうか。
アベルのわざが正しかったので
神は彼をお誉めになり、
カインのわざは悪かったので
彼を祝福なさることができなかったことから、
兄弟アベルに対して
カインの心にかきたてられたのと同じ憎悪が、
サウルの心にあった。
ねたみは誇りの子供であり、
心の中でちやほやされると、
残酷な行いや憎しみ、
報復や殺人へと導いていく。
キリストと暗黒の君との間の大争闘は、
日々の実生活の中で行われている。
Signs of the Times 1888年 8月 17日
2012年8月7日火曜日
祈りに調和した生活をしなさい
信仰をもって祈りなさい。
そして
祈り求める祝福を
得るためには、
あなたは自分の生活を
祈りと調和するように
努めなければなりません。
信仰が弱まることのないように
注意しましょう。
なぜなら、
あなたが受ける祝福は、
あなたの信仰の強さと
その実践に比例するからです。
「そこで、イエスが二人の目に触り、
『あなたがたの信じているとおりになるように』」
「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」
(マタイ9:29、21:22)。
祈り、信じ、喜びましょう、
祈りに答えたもう神に心からの讃美の歌をささげましょう。
神をその言葉通りに信じましょう。
「約束してくださったのは真実な方なのです」(ヘブライ10:23)。
心からの真剣な祈りは、
決して失われることはありません。
神への水路は開いています。
恵みの川は流れています。
その流れにはいやしの力が伴い、
救いと命、健康を豊かに与えてくれます。
(『教会への証』 第七巻274p)
祈り 90-91p
2012年8月6日月曜日
私たちの心が傷つけられ
私たちの心が傷つけられ、
痛めつけられる機会も、
満更捨てたものでは
ないのです。
そのおかげで、
私たちは
他人の痛みを
思いやることが
できる人間に、
なろうと思えば
なれるのですから。
*目に見えないけれど大切なもの
2012年8月5日日曜日
「今日」という日は
「今日」という日は、
自分にとって
一番歳をとった日
である。
しかしながら、
今日よりもう
若くなることは
ないとすれば、
自分にとって
「一番若い日」
でもあるのだ。
そう思う時、
そこに、
「今日」のありがたさが生まれてくる。
権利としての一日ではなく、
〝たまもの〟としての一日になる。
*愛をこめて生きる
2012年8月4日土曜日
2012年8月2日木曜日
神はすべての必要を満たすため、近くに来られる
真の幸福は、
助けを必要としている人々を助けるために
無我の努力をすることのうちに
見出されるであろう。
神は弱いものを助け、
力のない者を強くされる。
試みや争いや困窮が最も大きい所で、
神にあって練達した者は
いっそうの保護を受けるに違いない。
激しい戦いの中で働いている者たちに、
神はこう言われる、
「主はあなたの右の手をおおう陰である」。
我々の主は、
我々の必要にご自分を適応させられる。
彼は我々の右の手をおおう陰である。
彼は、
我々の必要をすべて満たす用意をされて、
我々のそば近くを歩かれる。
彼は、
喜んで神への奉仕についている人々の
ごく間近におられる。
彼はすべての人の名を知っておられる。
ああ、我々には、
キリストのなんと優しい愛の保証があることか。
Manuscript 51.1903年
2012年8月1日水曜日
友の価値
物事は
誰にとっても
うまくいかない
ことがある。
悲しみと失望は
すべての魂に
のしかかってくる。
そのような時、
慰め力づけてくれる友人が、
個人的にそばにいてくれると、
その存在が、
滅ぼしてしまおうと
ねらいを定めている敵の矢を
打ち返してくれる。
クリスチャンの友は、
いるべきほどの半分もいない。
誘惑の時に、危機の時に、
真の友人はなんという価値があることか。
そのような時に、サタンは、
震える足をつまずかせようと、
自分の代理者を送ってくる。
しかし、忠告し、魅力ある希望を与えようとする
真の友人、
魂を高め穏やかにする信仰、
ああ、そのような助けは
高価な真珠よりもずっと価値がある。
Letter 7.1883年
登録:
投稿 (Atom)