2011年5月31日火曜日

意味が見出せるかどうか







意味的存在としての
人間にとって、
お金よりも、
財産よりも、
名誉よりも、
していることに
意味があるかどうか、
意味が見出せるかどうかが、
もっと重要なのです。

*人間としてどう生きるか

2011年5月30日月曜日

絶えず必要なキリストのとりなし



今日キリストに来る
すべての者は、
キリストの功績が、
罪を悔い改めて
ゆるしと憐みと
恵みを受ける人々の
祈りに、
混ぜ合わされる香で
あるということを
覚えていなければ
ならない。

我々は、
キリストの執り成しを
絶えず必要としている。

日毎に、朝に夕に、
謙遜な心は祈りを捧げる必要がある。

その祈りに、
恵みと平安と喜びという答えが
返ってくるであろう。

「だから、
私たちはイエスによって、
さんびのいけにえ、すなわち、
彼の御名をたたえるくちびるの実を、
絶えず神にささげようではないか。

そして、
善を行うことと施しをすることとを、
忘れてはいけない。

神は、
このようないけにえを喜ばれる」

Manuscript 14. 1901年

2011年5月29日日曜日

キリストの祭服を着せられる



キリストは
人と神との間の祈りの
仲介者になられたのである。

彼はまた、
神と人との間の祝福の
仲介者ともなられた。

彼は神性と人性とを結合なさった。

人は自分自身の魂の救いにおいて、
神との共労者とならねばならない。

それから、
滅びようとしている人々を救うために熱心に、
忍耐強く、
たゆまぬ努力をしなければならない。


Letter 22. 1898年

2011年5月28日土曜日

大きく表示して読みたい



「教区長室便り」や
「聖書研究ガイド」などが
もっと大きな文字で表示
されていたら、
読みやすいのに・・・・

・・・・・・・・・・

ごめんなさい。
今のところ、
こんな感じですね~

ちょっと画像は粗くなりますが、
こんな方法もありますので
試してみてくださいますか・・・・

「Ctrl」(コントロールキー)を押しながら、
「+」(プラスキー)を押すと大きくなります。

押せば押す回数分、表示サイズが変わります。

サイズを元に戻すときは、もちろん
「Ctrl」(コントロールキー)を押しながら、
「-」(マイナスキー)を押してください。


・・・・・少しは読みやすくなったでしょうか?

第10課 放蕩息子の新しい衣服

2011年5月27日金曜日

リーダーの心

愛は溢れていきます




愛は溢れていきます。

愛は
決して涸れることがなく、
使ったからといって
減ることがなくて、
愛は、
また次の愛を生んで、
世の中に
愛が溢れていきます。


*人間としてどう生きるか

2011年5月26日木曜日

才能の本源



陰ひなたのない勤勉さを養い、
自分の才能を進んで仕事に
注ぐような青年たちを活用
しなければなりません。

このような青年たちは
どこへ行っても
働く場所があります。

なぜなら
彼らは中途でぐらつくような
ことがなく、
その心と魂に神のみ像を
宿しているからです。

彼らはわき目もふらず、
勝利を叫びながらたえず上へ向かって前進します。

しかし、
なまけ者や臆病者や信じない者は、
神の働きに召されません。

彼らは信仰が足りず、
またキリストのために自我を抑制する気がないために、
神の働きの前進をはばんでしまうからです。

神は、
神と共に働く者を召しておられます。

キリストにつながるとき、
人の性質は純粋になり真実になります。

キリストは能率を補ってくださいます。

こうして人は善にとって一つの力となります。

真実と正直は神の属性で、
この性質を所有する者は何ものにも
負かされることのない力を持っています。

青年への使命 21、22

2011年5月25日水曜日

私たちの精神衛生




人を助けるためには、
まず自分がゆとりを持つ
ということがたいせつでしょう。

自分が溺れているのに
他の人が溺れているのを
助けてあげることができないように、
まず私たちの精神衛生というものを
良くすることがたいせつだと思います。


*人間としてどう生きるか

2011年5月23日月曜日

無事終了「第2回 西日本女性大会」



多くの恵みと祝福をいただきました。

〝主に感謝!〟


雰囲気を写真でご覧いただけます。

右⇒サイドページ画像上をクリック⇒

(安息日礼拝後 宿泊者46名と日帰り参加者)
この写真に写っていない人、数名いるかも・・



2011年5月19日木曜日

天の交わりの可能性



我々の神への嘆願は、
利己的な野心で満たされている心から
出てきてはならない。

神に栄光を帰するような賜物を
選ぶように神は勧めておられる。

神は地上のもののかわりに
天上のものを選択するよう
望んでおられる。

神は我々の前に天の交わりの可能性と
利点を開放される。

神は我々に
最も高尚な目的を持つようにと励ましを与え、
我々の最高の宝を保証しておられる。

この世のものへの執着が払い除けられるとき、
信じる者はどのような地上の災害によっても
失われることのない天の宝と富を持つであろう。

Review and Herald 1898年 8月 16日

2011年5月18日水曜日

物事に意味を与えることのできる力



人間には
いろいろの力が
与えられているけれども、
その中で
最もすばらしい力は、
物事に
意味を与えることのできる力
ではないだろうか。

苦しみにさえ価値を見出し、
ありがたいと思うことができ、
逆境においてさえ
ほほえむことのできるのが
人間である。


*美しい人に

2011年5月17日火曜日

この地上は天国の準備



この地上で
神との交わりを楽しんで
いなければ、
決して天国に
入ることはできない。

この地上は、
天国の準備をするところだからである。

神が、
魂にとって最高の崇敬と愛と
畏れの対象となるべきである。

この世は、
より上の学年に進級するための予習が
受けられる学校に過ぎない。

・・・・・

神があなたの前に置かれた崇高な思想を
思い巡らすことによって、
あなたは純粋で聖い雰囲気、
すなわち神のみ前にまで高められるであろう。

あなたがここに留まっていると、
あなたにつながっているすべての人を照らす光が
あなたから輝き出るのである。


In Heavenly place 161

2011年5月16日月曜日

知恵の源



いかなる働きの分野における成功も、
運や偶然や運命の結果なのではない。

それは神の摂理の働きかけであり、
信仰と分別、
徳と辛抱の報いなのである。

優れた知能や高い道徳性は
偶然の結果なのではない。

神が機会をお与えになるのであり、
成功はそれらの用い方にかかっているのである。

我々が意志を働かせて行うように、
神の恵みは我々の内に働くが、
恵みが努力の代わりに与えられることは決してない。

・・・・・

主のみ旨を行おうと懸命に努力するすべての人と
協力してくださるであろう。

そして御霊を授けることにより、
主はあらゆる真の目的、
あらゆる高潔な決心をも強めて下さるであろう。

服従の道を歩む者たちは、
多くの障害に行き当たるであろう。

強力で巧妙な影響が彼らを世に縛りつけるかもしれないが、
主は彼に選ばれた者たちを
打ち負かそうと働くすべてのむなしい力をも
はな返すことがおできになる。

御力の内に、
彼らはすべての誘惑に勝利し、
すべての困難を克服することができる。

Counsels to Church 247

2011年5月15日日曜日

一人の人間が




一人の人間が
人格であるということは、
自ら考え、
選び、
選んだことに
責任を持つ存在であるということである。

自由のきびしさを経験することなしに、
人は人格になり得ないのだ。


*信じる「愛」を持っていますか

2011年5月13日金曜日

2011年5月12日木曜日

あらゆる真理の中心




贖罪としてのキリストの犠牲は、
大真理であり、
他のすべての真理は
その周りに群がっている。

創世記から黙示録に至るまでの、
神の言葉の中の真理が
すべて正しく理解され、
評価されるためには、
カルバリーの十字架から流れ出る
光のなかで
研究されなければならない。


Gospel Workers 315

2011年5月11日水曜日

謙虚に呟きながら



別人格としての個人個人の間には、
決して完全な理解、
一致はあり得ないという事実を、
醒めた目で冷静に受けとめないといけないのだ。

それと同時に、
温かい心で、
自分と異なる相手を優しく受けとめ、
許しながら、
そして自分もすでに許されているのだと
謙虚に呟きながら生きてゆきたいと思う。


*目に見えないけれど大切なもの


2011年5月10日火曜日

神に対する罪



王座についている者が犯しても、
卑しい身分の者が犯しても、
罪は罪である。

たとえゆるしを受けるには
遅すぎるとしても、
罪を犯した者はみな
いずれ告白する日がやってくる。

神は罪人が告白するのを待っておられる。

神は驚くほどの寛容を示される。

しかし最後には、
神は律法の違反者の責任を問わねばならない。

人は人を傷つけることで罪に問われるのだが、
最も大きな罪は彼が主に対して罪を犯したこと、
そしてその例によって
他の人に悪い影響を及ぼしたことである。

まじめな神の子は、
神のご要求をいささかも軽んじたりはしない。


Manuscript 147.1903年

2011年5月9日月曜日

無限のお方に触れる


本質において
世俗的な教育がある。

その目標は世で成功することであり、
自己の野心を満足させることである。

この教育を受けるために、
多くの生徒は
不必要な知識で頭をいっぱいに
することに時間と金銭を費やしている。

世は彼らを博学と見なすが、
神は彼らの思いの中にはない。・・・

非常に異なった種類の別な教育がある。

その基本的な原則は
世界で最も偉大な教師によって述べられているように、
「まず、神の国と神の義とを求めなさい」である(マタイ6:33)。

その目標は利己主義ではない。

その目的は神を崇めることである。

・・・神はすべての知識の源である。

彼は限りなく賢く、正義であって、善良なお方である。

キリストから離れては、
今まで生きたどんな賢い人でも、
神を理解することはできない。

彼らは賢いと公言するかもしれない。

彼らはその業績を誇るかもしれない。

しかし、キリストを中心とする偉大な真理から離れては、
単なる知的な知恵はむなしい。・・・

人間が一瞬でも
限りある視界の範囲を超えて見ることができたら、
また永遠であるお方を一目でも見ることができたら、
誇っていた口はすべて閉ざされてしまうであろう。

この小さな世界に生きている人間は有限である。

神はご自身の律法に服従し、
彼に栄光を帰している無数の世界を持っておられる。

人間が限りある能力で
許されるだけ科学的な研究を進めるとき、
彼らが把握することのできない無限が更に広がる。

人間が真に賢くなる前に
自分たちは神に依存していることを悟り、
神の知恵で満たされなければならない。

神は霊的な力のみならず、
知的な力の源でもあられる。

科学の分野において
すばらしい高さに達したと世界が見なしている
最も偉大な人たちでさえも、
愛されたヨハネや使徒パウロと比べることはできない。

知的及び霊的力が結合したときに、
人間は最高の標準に到達するのである。


In Heavenly place 43

2011年5月8日日曜日

キリストを通して啓示された神のご品性

神は
有形の実在者たる神として
ご自身をみ子の中にあらわされた。

父の栄光の輝きであり、
「神の本質の真の姿」であるイエスは
実在者である救い主として
この世にこられた(へブル1:3)。

彼は
個性をも持たれる救い主として天にのぼり、
個性を持たれる救い主として
執り成しておられる。

神のみ座の前でわたしたちのために
「人の子のような者」として奉仕されている(黙示録1:13)。

世の光であるキリストはその神性の、
目もくらむ光を隠して人間となり、
人間の間に住むためにこられたが、
それは人間が焼き滅ぼされることなく、
創造主に親しめるようになるためであった。

罪が人間と創造主とを離反させて以来、
キリストを通して神がおあらわれになる以外に、
だれも神を見た者がなかった。

「わたしは父とは一つである」とキリストは言われた(ヨハネ10:30)。

また、「子を知る者は父のほかにはなく、
父を知る者は、子と、父をあらわそうとして
子が選んだ者とのほかに、
だれもありません」(マタイ11:27)。

神が人間に知らせたいと思っておられることを
教えるためにキリストはこられた。

高い天に、地に、広い海に
神のみ手のわざをわたしたちは見るのである。

全被造物は神の力と知恵と愛を証明している。

しかし、星や海や瀑布(ばくふ)などからは、
キリストのうちにあらわされているほどの神の性質を
学びとることはできない。

神の個性と品性を描写するには
自然界よりもさらに明りょうに表すものが
必要であることをごらんになり、
神のみ子を世につかわし、
見えざる神の性質や属性を
人間の目にたえられる程度にあらわされたのであった。


ミニストリー・オブ・ヒーリング 393、394

2011年5月6日金曜日

癖の強い木

キリストの義を着る



たとえの中の礼服は、
キリストの真の弟子が持つ
清くてしみのない品性を
あらわしている。

教会は、
「しみもしわも、
そのたぐいのものが
いっさいなく、」
「汚れのない
麻布の衣を着る」のである。

(エペソ5:27 ; 黙示録19:8)


   キリストの実物教訓 290

2011年5月5日木曜日

神は原則を心に抱く人々を祝福される



主は人々を、
彼らが自分の意のままに
事をするためでなく、
神の御旨を実行するために
責任ある地位につけられる。

彼らが神の統治の純粋な原則を
持ち続ける限り、
神は彼らを祝福し、強め、
彼らを神の器として認められる。

神は原則に真実な者を
決してお見捨てにならない。

     Manuscript 164. 1902年

2011年5月4日水曜日

幸福の源キリスト



秩序のある生活と
敬虔な会話を通して
主の恵みを表すことにより、
彼らは御名をほめたたえることが
できるのである。

そうするとき気性は優しくなり、
いらいらは消えてしまう。

いつまでもいて下さる客として
キリストを宿す心が、
最も幸福な心である。

敬虔が抑制の原則となっている家庭が、
最も祝福された家庭なのである。

・・・キリストの平安とご臨在のある仕事場においては、
働き人たちは最も頼りになり、
最も忠実で最も能率的になるであろう。

神を畏れ愛する心が見られるのである。

世の中には、
キリスト抜きの慰めも幸福も存在しない。

我らの友、
我らの救い主としてキリストを認めよう。

・・・彼の内には比類のない魅力がある。

ああ、我々すべての者が、
永遠という終わりのない新時代を通じて
キリストと共に治めるために、
この短い恩恵期の間
キリストと共に生きることを願う。

・・・もし信仰によってキリストを心に宿らせるなら、
あなたは幸福になり、
讃美と喜びに満たされるであろう。

                    My Life Today 157

2011年5月3日火曜日

密室の祈りの必要



イエスが地上におられたとき、
祈りの仕方を
弟子たちに教えられた。

日々の必要を神の御前に述べ、
すべての思いわずらいを
神に負わせるよう指導された。

それから、
彼らの嘆願は聞かれるとの
確証をお与えになった。

その確証は我々にも与えられている。

秘密の祈りをするための場所を持ちなさい。

イエスは神と交わるための場所を
いくつかお選びになっていた。

我々もそうすべきである。

どれ程みすぼらしかろうと、
神と一対一で交われるような場所に、
我々はたびたび退く必要がある。・・・

神の御目だけが見ることができ、
神の御耳だけが聞くことのできる秘密の祈りの場所において、
無限の憐みを持たれる御父に
心の奥底にある切なる願いを注ぎ出すことができる。

そして魂の静寂の中で、
人間の必要を訴える叫びに答え損なうことのないみ声が、
我々の心に語って下さるであろう。

・・・日々キリストを親しい友とするとき、
見えない世界の力が我々の周りに存在するのを
感じるようになる。

そしてイエスを仰ぐことによって、
我々は見ることによって変えられていく。

天国にふさわしくなるよう、
品性は和らげられ、洗練され、気高くされる。

我々の主との交流の確実な結果は、
敬神と純潔と熱意を増加させることであろう。

祈りにおいて知性の成長がなされるであろう。

我々は天来の教育を受けている。

そして、
これが勤勉と熱意の生活の内に例証されるのである。

日毎の熱心な祈りによって、
助けと支えと力を求めて神に向く魂は、
気高い熱望、真理と義務についての明瞭な洞察、
崇高な行動の目的、
そして義への絶え間ない飢えと渇きを持つであろう。

神とのつながりを保ち、
他の人々との交わりを通して、
我々の心を支配している光と平安と平穏を
彼らに向けて発散させることができるようになる。

思いやりと心づかいの内に
心を訓練するという辛抱強い努力と
結び合わさった神への祈りにおいて得られた力は、
日々の義務に人を備えさせ、
あらゆる状況下で精神を平安に保つ。

宗教は心を空っぽにしてきれいにすることで始まり、
日々の祈りによってはぐくまれなければならない。

                          Amaging Grace 2

  

2011年5月2日月曜日

地の低い所から



十字架は
地の低い所から
あなたを持ち上げ、
神との最も快い霊的交わりに
導いてくれる。

十字架を負うことにより、
あなたは経験から
「わたしは知る、
わたしをあがなう者は
生きておられる。

彼が生きておられるから、
わたしも生きるであろう」と
言えるようになる。

これは何という保証であることか。

      Manuscript 85. 1901年

2011年5月1日日曜日

罪の自覚


ダビデ王に与えられた
預言者ナタンのたとえ話は、
すべての人が研究すべきである。

ウリヤに対する彼の行為が
どう思われているか
全く知らずにいるときに、
光は王の上に鮮明に当てられた。

彼が放縦と戒めの違反という道を
進んでいる時に、
貧しい人から一頭の小羊を奪った
富める人のたとえ話が提示された。

ところが王は、
罪の衣に完全に包まれていたので、
彼がその罪人であることを悟らなかった。

彼はまんまと引っ掛かり、
大いに憤慨して、
自分では別の人だろうと想像していた者に、
死の宣告を下した。

たとえ話の適用がなされて、
事実が彼の心によみがえり、
ナタンが、
「あなたがその人です。あなたは知らずに、
自分自身に宣告したのです」と言ったとき、
ダビデは途方に暮れた。

自らの行動を弁護するための言葉は
一言も出すことができなかった。

ダビデにとって、
これは最も辛い経験であったが、
最も有益でもあった。

しかし、
彼に自分自身の姿をはっきりと認めさせた鏡を、
ナタンが彼の面前に掲げなければ、
彼は忌まわしい罪を自覚することなく、
破滅に至ったことだろう。

罪の自覚が彼の魂の救いとなった。

彼は、
主が彼をご覧になった角度から自分自身を見た。

そして生きている限り、
自らの罪を悔いたのであった。

                   Letter 57. 1897年