2012年2月2日木曜日
小石か磨かれた宝石か
クリスチャンは
キリストの宝石である。
彼らは、
その愛の光を放って、
主のために明るく輝かねばならない。
その光沢は、
彼らが受ける磨きにかかっている。
彼らは磨かれるか、それとも
磨かれないままに残されるか選べるのである。
しかし、
主の宮に置かれるのにふさわしいと言われる者は誰でも、
磨きの過程に身を任せねばならない。
主に磨かれることなしには、
彼らはどこにでもある小石以上の輝きを反映することはできない。
・・・・・・・・・・
神の職人は無用な材料のために時間を浪費しない。
彼は、貴重な宝石だけを、
あらあらしい角はみな切り捨てて、
宮殿にふさわしくなるように磨きあげる。
この過程は厳しいものであり、
試練であり、人間の誇りを傷つける。
キリストは、自己に満足していた人が
完璧だとみなしていた経験の中に深く切りこんで、
その品性の中から自己高揚を取り去る。
彼は、
余分な表面を切り取ってしまって、
その石をといし車の下に置き、
すべて粗野なところがなくなるように
それをしっかりと押しつける。
それから、
主はその宝石を光にかざし、
ご自身がそこに映っているのをご覧になり、
それは自分の宝庫におさめる価値があると宣言される。
「その日、わたしはあなたを立て、
あなたを印章のようにする。
わたしはあなたを選んだからであると、
万軍の主は言われる」(ハガイ2:23)。
それがどんなに厳しいものであっても、
石に新しい価値を与え、
生きた輝きをあたえるような経験は幸いである。
Review and Herald 1907年 12月 19日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿