イエスの美、善、いつくしみ、
そして愛を瞑想すると、
知的また道徳的な力が強まり、
キリストのわざを行い、
従順な子となるように
心の訓練を続け、
次のような問いをするのが習慣となるであろう。
「これは主の道だろうか。
イエスは私がこうするのを喜ばれるだろうか。
これは自分を喜ばすことになるのだろうか、
それともイエスを喜ばすことになるのだろうか。」
それから、だれもが次の主のみ言葉を思い出す。
「あなたは、われらの隠れた罪をみ顔の光の中におかれました。」
イエスを喜ばせたければ、
多くの者はその思いと行いの傾向を決定的に変える必要がある。
神は嘆きという光で罪を見ることはめったにない。
多くの者は罪の道をたどるのが習慣になっており、
サタンの力の影響を受け、心はかたくなになっている。
また彼らの思いは、悪い感化のとりこになっている。
だが、サタンの誘惑に抵抗して、
自分の心を神の力と恵みのうちに置くと、
頭脳は明晰になり、神の霊に影響されて
心と良心は鋭敏になり、
罪がありのままに、恐ろしく罪深く見えてくる。
その時こそ、
隠れた罪が明らかに見えてくるのである。
彼らは罪を神に告白し、
悔い改めて罪を恥じるようになる。
・・・神はそれらをみ顔の光から取り除き、
背後に投げ捨てておしまいになる
(Letter 43. 1892年)。
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