2012年2月1日水曜日

私たちは神がご覧になるように自分の生活を見るだろう





イエスの美、善、いつくしみ、
そして愛を瞑想すると、
知的また道徳的な力が強まり、
キリストのわざを行い、
従順な子となるように
心の訓練を続け、
次のような問いをするのが習慣となるであろう。

「これは主の道だろうか。
イエスは私がこうするのを喜ばれるだろうか。

これは自分を喜ばすことになるのだろうか、
それともイエスを喜ばすことになるのだろうか。」

それから、だれもが次の主のみ言葉を思い出す。

「あなたは、われらの隠れた罪をみ顔の光の中におかれました。」

イエスを喜ばせたければ、
多くの者はその思いと行いの傾向を決定的に変える必要がある。

神は嘆きという光で罪を見ることはめったにない。

多くの者は罪の道をたどるのが習慣になっており、
サタンの力の影響を受け、心はかたくなになっている。

また彼らの思いは、悪い感化のとりこになっている。

だが、サタンの誘惑に抵抗して、
自分の心を神の力と恵みのうちに置くと、
頭脳は明晰になり、神の霊に影響されて
心と良心は鋭敏になり、
罪がありのままに、恐ろしく罪深く見えてくる。

その時こそ、
隠れた罪が明らかに見えてくるのである。

彼らは罪を神に告白し、
悔い改めて罪を恥じるようになる。

・・・神はそれらをみ顔の光から取り除き、
背後に投げ捨てておしまいになる


(Letter 43. 1892年)。

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