旧約聖書の創世記47章、
ヤコブの息子のヨセフがエジプトの指導者となっていたときのことです。
カナン地方も含めたエジプト一帯に激しい飢饉が襲います。
エジプトの地もカナンの地も飢饉のために衰え果てていました。
そこで、ヨセフは銀を引き換えにして、人々に穀物を提供しました。
貯蔵していた穀物をもって国家の秩序を保ちます。
ところが、やがて銀も尽き果、人々はヨセフに訴えます。
「私たちに食物を下さい。
銀が尽きたからといって、どうして死んでよいでしょう」。
そこでヨセフは彼らの家畜を引き替えにして食物を与え、
その年を切り抜けさせました。
次の年、人々はまたヨセフに言います。
「私たちは、私たちのからだと農地のほかに何も残っていません。
食物と引き替えに私たちと農地とを買い取ってください。
どうか種を下さい。そうすれば私たちは生き続け、土地も荒れないでしょう」。
ヨセフは農地を買い取り、言います。
「さあ、この種を地に蒔きなさい。
収穫の時、その5分の1はパロに納め、5分の4は畑の種のため、
あなたがたの食糧のため、家族のため、
また幼い子どもたちの食糧としなさい。」
税率は20%でした。現在の所得税と住民税よりも低いかもしれません。
ヨセフという良い指導者の下、公共福利が実現したのです。
民は言います。「あなたさまは命の恩人です。
御主君の御好意によって、私たちを奴隷にしてください」。
人々は自らを喜んでヨセフに捧げます。
私たちも、どうすることもできない困難に出会うことがあります。
そのときに神様に助けを求め、
神様のお力によって切り抜けさせていただくことがあります。
その中で、今まで明け渡すことができなかった、自分自身を、
神様に明け渡すことができるようになります。
パウロは言います。「主によって召された奴隷は、
主によって自由の身にされた者だからです。
同様に、主によって召された自由な身分の者は、
キリストの奴隷なのです」(第一コリント7:22 )。
ここで、パウロが言おうとしていることは、
キリスト者はキリストに買い取られたものだから、
この世の身分は何であれ、すべての人間から自由になることを意味します。
それは、自分勝手に振舞うことではありません。
それは、どんな仕事も、もはや人のためにするのではなく、
キリストのためにする、という意味です。
ジョージ・ハーバートという方が次のような詩を残しています。
なんじにあずかれば 世にいやしきものなし、
「汝がために」なせば すべてはきよく輝かん。なんじを思うしもべには
骨折り仕事も神のもの、汝が律法(のり)のため箒(ほうき)をもてば
家もわざもきよめられん。
こはすべてを金(きん)に変うる 世にも名高き石になるぞ、
神の指もて触るるものは かくも尊きものなるぞ。
私も喜びのうちに、良き指導者イエス様の奴隷とさせていただき、
以下の『毎朝の祈り』(ホワイト夫人著)を毎朝ささげたいと思います。
「毎朝、神におのれをささげ、
これを最初の務として、次のように祈りましょう。
『主よ、しもべを全くあなたのものとしてお受け入れください。
私のすべての計画をあなたのみ前におきます。
どうか、しもべをきょうもご用のためにお用いください。
どうか、私と共にいましたもうて、
すべてのことをあなたにあってなさせてください』と。
これは毎日のことです。
毎朝、その日一日、神に献身して、すべての計画をかれにお任せし、
摂理のままに実行するなり、中止するなりするのです。
こうして、日ごとに生涯を神のみ手にゆだねるとき、
次第にあなたの生涯がキリストの生涯に似てくるのであります」
(『キリストへの道』88)。
(by 藤田 昌孝)
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