2009年3月2日月曜日
とるに足らない者
それでもなお、モーセは主に言った。
「ああ、主よ。
わたしはもともと弁が立つ方ではありません。
あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でも
やはりそうです。
全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」
主は彼に言われた。
「一体、誰が人間に口を与えたのか。
一体、誰が口を利けないようにし、
耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、
また見えなくするのか。
主なるわたしではないか。
さあ、行くがよい。
このわたしがあなたの口と共にあって、
あなたが語るべきことを教えよう。」
モーセは、なおも言った。
「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけて
お遣わしください」(出エジプト4:10~4:13)。
モーセは、神様からイスラエルの民を
エジプトの地から脱出されるために、
召命を受けますが、それについては、執拗に拒みます。
エレン・ホワイトは神様からの召しを受けたモーセの描写を
次のように表しています。
「神の命令がモーセに与えられたとき、彼は、自信がなく、
口が重く、おくびょうであった。
彼は、イスラエルびとに対する神の代弁者としての、
自分の不適任さを思って圧倒された。
しかし、ひとたびその任務を受け入れるや、
主にまったく信頼を寄せ、全心をこめて働きを始めた。
彼はこの偉大な働きのために、彼の知力のかぎりを尽くして働いた。
神は、モーセのこのような従順な態度を祝福されたので、
彼は雄弁になり、希望に満ち、落ちつきを取りもどして、
人間にゆだねられた最大の働きにふさわしい人物となった。
これこそ神にまったく信頼し、
主のご命令に完全に従う者の品性を神が強化されるよい実例である。
人間は、神がお与えになる責任を受け入れ、
全力を尽くして正しく遂行しようと願うときに、
力と能力とを受けるものである。
たとえ、その地位がどんなに低く、その能力にかぎりがあったとしても、
神の力に信頼し、その働きを忠実に果たそうとするものは、
真に偉大なものになるのである。
もしも、モーセが自分の力と知恵に頼り、
大きな責任を自分から進んで負ったとすれば、
彼はそのような働きに全然不適当であることを示したことであろう。
人間が自分の弱さを認めるという事実は、
少なくとも彼が、与えられた仕事の大きさを認識し、神を彼の力、
助言者とするということの証拠である」(『人類のあけぼの』上291)。
ドワイト・ムーディーは、モーセについて、このように語っています。
「モーセは自分はひとかどの人物であると考えて40年を
全くとるに足りない人間であることを学ぶのにさらに40年を
全くとるに足りない者に神が何をしてくださるかを発見するのに、
さらに40年をすごした」。
私などはひとかどの人物であるなどとは考える間もなく、
ひたすら、とるに足りない人間であることを学ぶのに、
50年をかけてきました。
あとは、とるに足りない者に
神様が何をしてくださるかを発見してゆかなければなりません。
牧師のみならず、多くの信徒の方々も、
福音宣教という神様のお働きに、その場その場で召命されています。
私たちが、この偉大な働きのために、主に信頼を寄せ、
知力の限りを尽くして働くならば、
神様は豊かな祝福をもって報いてくださると信じます。
(by 藤田 昌孝)
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