2011年4月13日水曜日

信仰によって願うことは我々の特権



しかし、
我々は清められたと感じるまで
待つべきだろうか。

-----そうではない。

キリストは、
「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、
神は真実で正しいかたであるから、
その罪をゆるし、
すべての不義からわたしたちをきよめて下さる」
と言われた(Ⅰヨハネ1:9)。

あなたは、
神の言葉を通して神に立証されているのである。

神があなたの願いをお聞きになったと信じる前に、
すばらしい感情がわき起こるのを待つべきではない。

感情があなたの基準であってはならない。

なぜなら感情は、雲のように変わりやすいものだからである。

あなたの信仰の土台として
確固としたものを持っていなければならない。

主の言葉は、
あなたが頼ることのできる無限の力の言葉である。

主は、「求めよ、そうすれば与えられる」と言われた。

カルバリーを見上げなさい。

イエスは、あなたの弁護士であると言われなかっただろうか。

主の名によって祈ることは与えられると言われなかっただろうか。

あなたは自分の功績、徳に頼ってはならない。

あなたは、キリストがあなたの罪を取り除いて
彼の義を着せられたことを信じて、
義の太陽に頼って来るべきである。

あなたは、
悔いた罪人として天来の弁護士イエスの名によって、
約束されたようにしてもらえると信じて、
憐み深い、ゆるしに富む神のもとに来なければならない。

神の祝福を望む者は、
「主よ、あなたは、
『求めよ、そうすれば与えられるであろう。
捜せ、そうすれば見いだすであろう。
門をたたけ、そうすれば、開けてもらえるであろう』
と言われました」と言い、
固い確信をもって恵みの座をたたき、待つようにしよう。

主は、神を求める者が、
すべてがおできになる主を信じるようになることを望んでおられる。

主は、
神がどれほど我々の願いを喜んで聞こうとしておられるかを、
よく知られている日常茶飯事をもって示そうとされた。

主は言われた。
「あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、
石を与える者があろうか。
魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。

このように、
あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、
良い贈り物をすることを知っているとすれば、
天にいますあなたがたの父はなおさら、
求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか」
(マタイ7:9-11)。

キリストは、
神がどれほど喜んで助けようとしておられるかを、
親が子供に対する自然の愛をもって論じられた。

自分の子供がパンを求めるのに、
それをしりぞける親がいるだろうか。
神がご自分の子らの叫びに応答されないと思って
神をはずかしめていいだろうか?

                 Selected Messages.book 1 328. 329

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