体験的な知識によって
キリストを知っていない
自称クリスチャンが多い。
これらの哀れな、欺かれた、
用意のできていない魂のために、
私の心はどれ程痛むことか。
会衆の前にたって、
うぬぼれ、
自己を義とする者たちを見、
彼らがキリストに受け入れられる働きに
自らを備えておらず、
平安のうちに主に会う備えをしていないのを知って、
私は眠れない程の重荷を感じる。
彼らの真の姿に気付くよう、
彼らを覚醒させるために私は何ができるだろうと自問する。
自己が彼らの関心事のすべて、
人生のテーマである。
彼らがキリストを仰ぎ、
自我に注目を寄せる事をやめるように、
はっきりとキリストを示すことができればと切望する。・・・
最後の決算の日に苦い失望を味わう者の中には、
外見は宗教的に見え、
クリスチャン生活を送っていたかのように見えた者たちがいる。
しかし、
彼らがなすすべての事に自我が織り込まれている。
Letter 91. 1904年
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