神がお認めになるのは、
うまい話し手や鋭い知性ではない。
熱心な目的、
深い敬虔、
真理への愛、
神への恐れが効果ある影響を及ぼすのである。
たとえどもりがちな言葉によるものでも、
信仰に満ち、
心を低くして信頼し、
邪気のない唇から出る心からの証は、
金のように尊いものとして神に認められる。
一方、
大きな才能を与えられているが、
真実さや堅固な目的、
清さや無我の精神に欠けている人々の洗練された演説、
なめらかな弁舌は、
騒がしい鐘やにょう鉢と同じだと見なされる。
彼は機知あることを言うかもしれないし、
楽しませる逸話を物語るかもしれない。
彼は感情をそそるかもしれないが、
イエスの精神はその中にないのである。
これらの事はすべて、
清められていない心を喜ばすかもしれないが、
神は手にはかりを持っておられ、
言葉と、精神と、誠実さと、献身とを量られる。
そしてすべては無よりも軽いと宣言される。
Letter 38. 1890年
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